タイの瞑想教室〈1〉

  ええっと。まあ、こんなような感じでホームページを作ることになって、こんな様にエッセイみたいなページも作ることになって、いったいなに書いたらええんかなあってずっと考えていたけれど、とりあえず旅のエピソードみたいなもんから書いていこうと思う。
  一番心に刻み込まれてるのはやっぱりタイで経験したスアンモウっていうお寺での瞑想の修行10日間やと思うので、まずそれについて書いてみたい。その体験というのは、まあ、なんというかある意味スピリチュアルな体験みたいなもんやったと思う。大げさに言えば自分の人生観がごろりと変わったような体験やったかもしれんと思う。
  ご存知タイというのは世界に名だたる仏教国で、国民の95%は敬虔な仏教徒。みんな礼儀正しくて信心深い。たぶん戦前の日本もこんな感じやってんなあとホウフツさせるような変に懐かしい匂いのする国なのだ。
  タイではえらいお坊さんというのは、国王の次!というぐらい地位が高いスターらしい。そんなわけで、本屋さんの雑誌のコーナーでは女性向アイドル雑誌やムエタイの雑誌に混じって、 「お坊さん雑誌」 みたいなのがある。もちろんそこには有名なお坊さんのグラビア写真と  「特集アジャ・チャルレンポーン高僧の日常」  みたいな文面がなどがきらびやかに掲載されてあって、夕方の本屋の店先では、制服姿の中学生たちが一冊の「坊さん雑誌」を囲み  「しかしカッコええなあ。この坊さん!」 っと誌面を指差しながら顔を見合わせたりする姿が見られて、なんだかとってもシュール。君ら若いのにもっとねーちゃんのケツでも追いかけなさいと言いたくなるが、まあ、それがタイでのお坊さんの地位を物語っているようでもある。そう。タイでは仏教というものは民衆の心に深く染み込んだとてつもなく日常的で偉大な価値観を形作っている思想でありファッションでもあるのである。
  そんなタイのお寺、スアンモウはタイの南部スラタニーという町からバスで北に2時間ほど行ったところにある由緒偉大なお寺で、月に一度外国人を対象に10日間の瞑想教室を開いている。瞑想教室は10日間。その間、食事は夕食なしの一日二回、もちろん精進料理。起床朝4時で寝るのは夜の9時。10日間の間は、酒、タバコ、マリファナはもちろんドラッグの一切は禁止。さらに本を読むのも、文字を書くのも、それになんと10日間喋ることすら禁止ときている。そんな雰囲気であるからマスターベーションやセックス (できればの話ですが) が禁止であるのは言うまでもないところでしょうか。
  そこでは、ただひたすら毎日を数時間の瞑想と、お経の唱和と、講義の聴講にあてるひたむきな修行の日々なのだ。
  タイに来てからの毎日を酒びたりに過ごした僕は、どうした成り行きか突然にそんな瞑想教室に参加することになって、晩酌も夕食もないそこでの夜をひどい拷問のようにも感じていた。けれど不思議なものでそれが 3日もたつと、ナチュラルな静寂がなんかようわからんほどの快感に変わることに気づいた。断酒によるものか、それとも繰り返される瞑想によるものか、とにかく、お寺の境内の動植物がきらきらと輝いて、言葉知らぬ有機体が心の奥から僕に何事かを語りかけてくるような錯覚に陥るという感じなのだ。
  会話の禁を破ってつれづれに言葉を交わしたイギリス人の兄ちゃんは、 「瞑想というのは酒やマリファナやヘロインよりも深い陶酔感をもたらしてくれて、めっちゃ気持ちがエエ」 とのたまう。ちなみにこのイギリス人の兄ちゃんはむかし注射を打ちまくったひどい麻薬中毒者で、瞑想によってそこから抜け出した人だという。確かに瞑想教室の周りを見渡せば、タトゥーやピアスにまみれたヒッピー風の人が多いことから、そんな事実がなんとなくうなずけることでもある。
  さて、そんな瞑想教室では、瞑想の他に、一日一回、数名の高僧による砕けた英語の講義がある。もちろん砕けたといっても、何とんじゃいアホンダラぼけカスしばいたろかとか、そういう砕け方ではなくて、ナマリがひどくて聞き取れない英語という意味である。いずれにしても片言しか解せぬ僕は、必死のパッチで仏教、そして瞑想なるものの、何がしかの手がかりを自分の心に記そうと躍起になって、それに聞き入っていたのであった。しかし、タイの坊さんのブロークンなイングリッシュは、とても僕の手におえたものではない。もちろんブロークンでなくても、そもそも英語の聞き取りは怪しいからね。それでもひたすらに言葉の端々を拾おうと努力するが、やっぱり何を言っているのかよくわからない。ただ、お坊さんたちの言葉の中に 「ダーマ」 とか 「ダルマ」 とか聞こえるフレーズがやたらと耳を刺激するのだけを感じた。ダルマ? それはもしかして達磨さんの語源と関係があることかいな。
  不思議なキュリアスを覚えた僕は、ここでもやはり禁を破って、英語が少しだけわかる小坊主に取り入ると、境内のはずれの森の入り口あたりで、そのことを問い詰めた。
「あのねえ。君ちょっと教えてほしいねんけど、ダーマとか、ダルマとかえらい坊さんが言うてるやろ、あれ何の意味?」 ああ。もちろんこんな大阪弁で言うてないよ。めちゃくちゃ片言の英語で言うた。でも通じた。
  その昔ロングヘアーのハードロッカーだったと語るその小坊主は、禁を破ることをむしろ喜ぶかのように、僕の質問に生き生きと答えてくれた。
「あなたはダーマの意味を知りたいというのですね」
「そうや」 もちろん大阪弁やない。英語やで。
  「ダーマというのは、仏陀の教えという意味です。でもここでは自然の法則ということと同じ意味で語られます」 と言う。なんだか、さっぱりわからん。僕がぽかああんとしていると、小坊主は、澄み切った瞳で僕を見つめこう言った。
「では、今からあなたにダーマを見せてあげましょう」 えらい大仰な言い方で迫りよんなあ。しかし、オレンジ色の袈裟に身を包んだ小坊主はくるりと背を向け、あたりの茂みにいったん身を隠すと、三枚の葉っぱを手にして再び僕の前に現れた。そして言う。
「ここに三枚の葉っぱがあります。あなたはこれを見ていったい何を想像しますか?」
  小坊主が手にした葉っぱは三枚。一枚は干からびてカラカラに乾いた茶色の葉っぱ。もう一枚は落ちてから少し時間がたった黄色に変色した葉っぱ。更に最後の一枚は今しがた落葉したばかりのみずみずしい緑色の葉っぱだった。茶色と、黄色と、緑色。葉っぱの形からしてこの三枚はどれもが同じ木から時間差をもって落葉したもののようだった。
  僕は、小坊主の掌の上に広げられた三枚の葉っぱを眺めると、反射的にこう答えた。
「カラカラの茶色いのは老人。黄色いのは中年。緑色のやつは若い人を想像させる」 僕はそう言った。小坊主はまるで僕を罠にはめたようなシニカルな笑顔を作った。それはなんだか僧侶のしぐさではないように見えた。そしてこう言った。
「その通りです。大自然というのは私たちに、その姿の全貌を持ってこの世というのがどういう成り立ちであるかということを教えてくれているのです。この三枚の葉っぱを見てあなたは人の一生を感じたことでしょう。自然を見ればそれだけで人間の世界というのがどんな事象であるかということがわかるのです。仏陀は今から2500年も前にそのことに気づきました。つまり仏陀の教えは、自然というものがひとつの法則を形作っていて、そのことがこの世のすべてを掌握しているルールであるといっているのです。そして私たち僧侶は、そのルールを知ることによって、自らの行動や心の動きを自然に同調させ、本当の意味での心の安らぎを得ようとしているのです。つまりそれが仏教の目的です。しかし、その自然のルールというものは、仏陀が作ったものではありません。もちろん他の人間が作ったものでもありません。それは自然界にもともと存在するすべてにとって普遍的なルールなのです。仏陀は自然を見つめることによってそのルールをひも解き、人間として生きる上での役に立つものにしようと人々に問い掛けていたのです。そのルール、つまりダーマとは人間が作り出した法ではなく、自然界にそもそも存在する法なのです。それはまるでアインシュタインが相対性理論を発見したこととある意味共通したことでもあります。相対性理論は、アインシュタインが作り出したものではなく、アインシュタインが自然の寿ぎを見つめ、あくまでも気づいたことなのです。仏陀の教えダーマとはまさにそんなものなのです。われわれはここスアンモウで、仏陀によって導き出された自然の法則を物理学者とは違う観点で解明しようとしているのです」
  僕も小坊主も大して英語が話せるわけではない。むしろ同じようなレベルであったことと、ダーマというものに対する興味が、僕たちの理解を深めたのかもしれない。それにしても強烈な概念だった。
  「仏教とは宗教ではなくて、自然科学なんかいな」
  「言葉のくくりによる捕らえようは千差万別です。でもダーマというルールが集約する最終的な真理は、相対性理論の行き着く先と同じものであると私たちは信じています」
  はあ。と息をつくと、僕は森の入り口の大きな緑の木を見た。シャム湾からの湿った風に吹かれて、数枚の枯葉がざわざわと舞いながら落ちた。熱帯でも枯葉が散るのをはじめて実感した。僕の達観したそぶりに小坊主はこう残した。
  「あなたが言ったように、三枚の葉っぱは、確かに老人と、中年と、若者を表しています。でも、同時にそれらは死というもの存在も主張しているのです。葉っぱは木から落ちた瞬間に栄養を断たれ死に向かっているのです。いや。落ち葉はどんなに緑色でもそれは既に死んでいるのかもしれません。つまりダーマは、人間というのは生れ落ちた瞬間から、既に死というものから逃れられないものであるということを教えてくれているのです。私たちはそれほど大きな自然のルールによって拘束されて、生かされているのです。そう。だから、このお寺の中で人間が作った小さなルールは、あくまでも大きな自然のルールの中でうまく翻弄されながら、生きていく為のものでなくてはいけませんよね。そんなわけだから今、禁を破って会話を交わしていることは、きっとなんでもないことですね」
  そう言ってニヤリと笑うと、小坊主は背中を向けて歩き出した。
  ダルマさんが転んだ。と、つぶやいた数秒の間、僕はどこを見ていたのかよく思い出せない。でも、次の瞬間小坊主の後姿を確認しようとしたら、そこにはすっかり誰もいなくて、いろんな色彩の落ち葉が散らばった砂利の道がただ視界の果てに続いているだけだった。