アルガンベイの蜂〈6〉

  旅をしていた時のことを断片的に思い出すことがある。それは、インドでハエのたかったおばあちゃんが路上で寝そべって死を待っている場面のように強烈な光景でもあるし、カンボジアのゲストハウスの白人オーナーがテラスから夕暮れの湖を眺めてタバコを吸っている後姿みたいに何気ない優しさに彩られた瞬間でもある。


  アルガンベイはスリランカのサーフポイントで、僕にはたくさんの思い出が詰まった土地だ。津波でどうやら相当な被害が出たらしく、ショックを受けているのだけれど、思い出せば、そこでのことは印象的な瞬間がまるでスライド写真のようになって僕の脳裏をよぎる。これから書くのはそうした写真の1ページだ。


  当時、僕はシリパレプレースというゲストハウスに連泊してサーフィン三昧の生活をしていた。宿泊客はイタリア人のカルロ、オーストラリア人のロバート、オーストラリア人のゲイリーとイギリス人のジュリーのカップル、そして僕の5人だった。夕食はいつも5人が小さなテーブルを囲んでぼそぼそと断片的な会話をスパイスにしながら闇と戯れた。時にはテーブル上の蝋燭の炎だけが唯一の動くものとして会話さえも凌駕し5人全員が沈黙に塗りこめられることも珍しくなかった。でもそれは決して退屈でも陰鬱でもなくって、全員がただ謙虚に静寂と暗闇を楽しんでいるだけのことだった。ヨーロッパの文明は闇が創り出したというけれど、確かに沈黙と闇というのはめまぐるしい空想と創造を人に与えてくれるんだと感じた。きっと1000年も前の北ヨーロッパあたりでは、こんなような日常が繰り返されていたんだと、彼らの彫りの深い顔立ちに小さなタイムスリップを起こす。


  静寂が包む僕らのテーブルの上には唯一の光、蝋燭があり、それを包むように透明なアクリル製の円筒が風除けのためおかれている。よく見ると円筒の中は光に誘われて飛び込んで来たハエやハチみたいな虫が十数匹。炎に焼かれてカラカラになった死骸と、まだまだうごめくものも見える。円筒の中は蝋燭の炎による灼熱地獄で、何も考えずに飛び込んできた虫たちにとってはどうやらトンでもない場所であるらしい。逃げ出そうにもアクリルの内壁はつるつるで登れない。飛んで逃げ出すにも蝋燭の炎が大きく、虫たちは熱と光に怯え、羽根を半分焦がしながら苦悶にもがきつづけるしかない。いずれにしても時がたてば半黒焦げのからからミイラになって彼らは死んでいくのだけれど。


  夕食を終えた僕たち5人は話すこともなく、ただ蝋燭の炎を見つめ沈黙していた。もちろん目前の蝋燭の下には虫たちの灼熱地獄がある。
  イタリア人のカルロは突然ブツブツつぶやくと、透明の円筒を持ち上げた。灼熱地獄は開放され、たくさんの死骸の中から一匹の羽根を焦がしたハチが命からがらという勢いで這い出し、テーブルの上をのた打ち回った。
  カルロは「逃げろ。もう大丈夫だ」みたいなことをハチに向かって言った。
  オーストラリア人の美男子ゲイリーが言う。「カルロ。やめなよ。羽根だって焼けてなくなってるハチだぜ。ただ苦しみを長引かせるだけだろ」
  同じくオーストラリア人のロバートが言う。「どうせもうすぐ死ぬよ」
  そうだね。というニュアンスをこめてイギリス金髪美人のジュリーの吸い込まれそうな瞳を見つめると、彼女はこう言った。


  「このハチ、あたしが飛ばせてみせようか」


  全員が、すこし驚いて、何言ってんだぁとあきれた顔をした。羽根も焼けてんのに飛ぶわけないやんと。
  するとジュリーはスプーンを取り出し、瀕死のハチをすくい上げると、表情も変えず蝋燭の炎にそれをくべた。微かな異臭がしてハチの全身から新たな、そして明らかに蝋燭の炎とは違う色の光が上がった。


  「ほら見た? いま飛んだでしょ。魂が飛んだのわかったぁ?」


  ジュリー以外の僕たち4人の男は、あっけに取られて絶句していた。蝋燭の最先端では炭の骨格になったハチがまだまだその形をとどめていた。すこし怖い顔つきになったように見えるジュリーの背後には深い闇が広がっていた。でもよく耳を澄ますと遠くで波の音も聞こえた。