イタリアは地中海に突き出した文化の受信アンテナなのだ〈9〉

  出張でドイツからイタリアを旅した。
  旅と呼べるようなことはペルーで犬に噛まれて以来だから、ホント実に久しぶりである。まあ、旅と言っても会社の出張によるものだから、どこまでも能天気なあの頃とは理由も質も違うわけだけれど、職務をこなすために宿を探し回ったり、なれない異国で迷いながら列車を乗り継いだりしたひと時が、僕に文化と混血に関するいろんな事を思い起こさせた。


  ドイツとイタリアの遠さというと、ミュンヘンとミラノは直線距離で500kmほどだから、大阪と東京ぐらいのものなのだけれど、列車で数時間かけてアルプスを越えるとラテン系とゲルマン系の気質や風貌の違いをまじまじと感じる。


  思ったのが列車の時間に対する正確度である。


  ドイツではマンガのように30秒も遅れず定刻に列車が到着すると言うのに、イタリアときたら、これまたマンガのように始発でも3~4分は必ず遅れて発車するのだ。
  ドイツの列車の運転手は常に定刻に列車を運行しているはずなのに、なにやら神経質に時間との戦いを演じて顔を引きつらせている。一方イタリアの運転手ときたら25分も遅れたってまるで何事もなかったように停車時間をたっぷりとって人生存在の喜びを噛み締めながら、しずしずと列車を滑らせはじめる。とにかくイタリアの駅のホームに吊ってある「次の列車の掲示板」には、はじっめから「遅れ〇〇分」という欄までこしらえてあって、まったくおそれいる。これがほんとのオーソレミーヨーである。


  ドイツとイタリアで感じたもうひとつの大きな違いがある。
  それはねーちゃんのケツのでかさと顔立ちの違いである。


  ドイツのねーちゃんはケツがでかい。プリプリである。それはまるで大ゲルマン帝国が激しい歴史の興亡の中で強くたくましく進化してきた過程を象徴させる性の芳醇たる果実であるに違いない。おおヨーロッパの大地の深みよ。そうした重みのある背景が熟れた匂いとなって僕を誘うのか、無意識の行動のうちに電車やバスの中でも、やたらねーちゃんのケツに視線を奪われている自分に気づく。要するにスケベオヤジに成り放題な国、それがドイツなのである。
  一方のイタリアではねーちゃんのケツは小ぶりでスレンダーである。ケツフェチの僕としては少し物足りない気もする。しかし、イタリアねーちゃんの妖艶な顔つきは神秘的な何かを感じさせ、謎に満ちた視線は僕たちをつかの間、いにしえの地中海の彼方へと連れ去るほどの魅惑なのである。


  ドイツのねーちゃんのケツの話はおいといて、イタリアのねーちゃんの魔術的な美しい顔立ちに魅了された僕は、文化の違いとは別角度から、文化の混血について考えた。


  だいたいイタリア半島というのは地中海に突き出たアンテナのような物で、アフリカやアラブやジブラルタルから迷い込んできたトンでもない民族の血や文化のすべてを確実にキャッチするように出来ている。イタリアというヨーロッパの中でも特異な文化は、突き出した半島によって地中海を流れる異文化をキャッチして成熟したブラボな混血文化なのである。だからイタリア人には黒人やアラブ人のような顔立ちの人が多い。それがイタリアねーちゃんの神秘的な風貌の由縁であろう。というわけでイタリアは文明的ヨーロッパ世界の中にあって、アフリカ的第3世界の匂いをぷんぷんと感じさせてくれる不思議ワールドでもある。まあ、それは地理上当然なことだろうけど、具体的にイタリアのどこかの村にアフリカで食べられている料理と同じようなものがあるという事実でもあれば調べてみたいもんだなあと思った。


  アフリカとの関連を匂わせる不思議の国イタリアでの最終日。ミラノ郊外のカンビアーゴ(コルナゴ本社があるところです)のレストランで昼飯を食った。ルッコラとパルメジャーノレジャーノチーズをかけたイタリア料理としての馬肉のタルタルステーキがメチャメチャ美味しかった。タルタルステーキといってもそれは生肉のユッケみたいなもので、その発祥が北ヨーロッパから入ってきたモンゴル遊牧民の料理だったと気づいたとき、アフリカならずアジアまでの広範囲を文化として受け入れる、イタリア文化の究極的の混血性に深く感慨してしまった。思えばトマトだって、パスタだって、発祥はイタリアではないのだ。
  世界は果てしなくつながっていると。そして、地球全体の文化の渦に飲み込まれている自分を再発見した久々のヨーロッパでした。