日記16. <夢は何かの象徴であるというけれど>

  朝一番なのに、嫁が「んけけけけ」と笑いながら「あたしすごい夢みてん」と上機嫌だった。
  どんな夢やねんと聞くと。
  「あたしとたっくん(僕です)と小雪が3人でいっしょにカラオケボックスで歌ってる夢やってん」とのこと。小雪とは女優の小雪のことである。なんで小雪が僕ら夫婦とカラオケボックスにいるのかよう分からんが、まあ夢というのはそんなもんである。
  その嫁の夢によると、小雪は持ち歌の「あなたのキッスを数えましょう」を悲しげに熱唱していたそうな。ところが隣の部屋に坂口憲二がいることに気づいた僕が、彼を部屋に連れてきて小雪に引き合わせる。最近別れたという噂の2人だが、そこで一緒に歌をデュエットしてヨリを戻し、僕たち4人は団欒とした中で楽しいときを過ごし、めでたしめでたし、という内容のものだった。

 

  聞いた話によると、夢の中でおこった出来事というのはすべてが何かを象徴していて、夢の中の事象がそのままのものを表しているのではないという。

 

  例えば、夢の中で腹ペコの自分が美味しい料理を貪り食っているとしよう。こんな場合、腹ペコという状態は、性的に飢えていて「セックスがしたい!」という切迫した気持ちを象徴したものであり、また美味しい料理はセックスの対象である好みの異性を表しているそうな。
  つまり、この夢の中に出てくる小雪や坂口憲二も、単に嫁が彼らに会いたいという願望を表しているのではなく、別のものの象徴として存在するわけで、僕はそれをこんな風に分析した。
  カラオケボックスは僕がプロデュースしたバー「タクリーノ」の象徴で、小雪や坂口憲二はそこに集うお客さんの意味であろう。つまり、「バーで仲間が楽しく過ごしてくれて、ケンカしてる人やなんかが仲良くなれるようなスペースになればエエのになあ」といった嫁の願望の表れではないかと僕はにらんでいるのだがどうだろう。

  そんなように簡単に分析できる夢もあるのだけれど、ちなみに同じ日に僕が見た夢はというと、これがよくわからん。

 

  僕が見た夢はこんな感じである。
  場所はどうやら南米あたりを思わせる異国の地。ビルディングもある都会なんだけど、そこに住んでる人々は裸族同然のカッコウをして、原始人そのままなのだ。その街では不思議な風習がたくさんあって、僕をぶったまげさせた。中でも驚いたのは、フルチンのお父さんがお乳をやるように子供たちにオチンコを吸わせる風習である。たくさんの人が集まる町内の寄り合いみたいな中で、小さな男の子や女の子がチュウチュウとオチンコを吸っている。それを見て奥さん連中はほのぼのとした幸せを感じさせるように「おほほほほ」なんて笑っている。僕はとっても固まったけれど、勇気を奮って、隣にいる現地語の分かる日本人旅行者に通訳させた。

 

  「そんなことして射精しちゃったらどうするんですか?」

 

  現地語の分かる日本人はニョゴニョゴニョゴと僕の質問を彼らに伝えた。その瞬間である。全員がカミナリに打たれたように引き攣ると、悲しげに号泣しだしたのだ。

 

  「なんて恐ろしいことを言うのだ!」と言ったニュアンスの中で老若男女が泣き崩れる様を見て、僕は「なんちゅういらん質問をしてしまったんや俺は。やばいでこら」と深い懺悔に身を落とすというストーリーである。

  この夢には続きがあって、それもすこぶる変な話である。
  この街では犯罪がとても多くて、物は目を離すとすぐ盗まれるし、辺りにはヤカラやボッタクリが横行している。タクシーに乗ったりするともう大変である。例えばホテルに帰るためにタクシーに乗ると、金を払っているあいだにタクシーが盗まれて、裸族の運転手はその瞬間から悪党に変身し、ホテルのものを壊したり、暴れたり、物をくすねていく。そんな悪い人にホテルにいられては大変なので、別のタクシーでその運転手を家まで送ってあげることになる。でも、そこからホテルに帰るためにやっぱりタクシーに乗らなけりゃいけない。そうすると、そのタクシーもホテルに着いたとたんに盗まれて、運転手は悪党に変わってしまう。それでまた別のタクシーで送ってあげて、けっきょく同じ事の繰り返しになる。
  そんなわけで、いつまでたってもホテルでくつろぐ事ができないというマジカルシティーで僕はタメ息をつくというストーリーなのだ。
  いったいこの夢、何を象徴してるんでしょ?


日記17. <ああ素敵! お墓参りの後に頭蓋骨を割れるなんて!>

  先日のことである。夜中に酔っ払ってコケテ頭を強打した。(一部情報筋でおやじ狩りとありましたがこれは冗談です。お騒がせしました)ちなみに、これがけっこう重症で、右の鎖骨はポッキリと折れて、右の頭蓋骨にひびが入り、MRIによると左の側頭部の脳みその一部砕けた豆腐のようになっていた。
  「そのわりには良く喋るやん」という担当医師の判断で、二週間の入院生活を終え退院を許可されたのだったけれど。(って、そんなんでええのかいな?)
  軽い脳挫傷による煌いた故郷の町の風景(それはヒロヤマガタやラッセンの絵のようにキラキラと幻想的でありました)を不思議に眺めながら、ちょっと気になることを考えた。

  「お墓参りの理論」で書いたとおり最近すっかりお墓参り好きになった僕は先日のお彼岸で既に先祖の墓参りをしていた。なのに、ゴリヤクがあるはずのお墓参りの後でピクピク状態事故のこのざまである。

 

  お墓参りって行けばいいことがあるはずじゃないの?!

 

  お墓参りの後に頭蓋骨を割るくらいなら、行かない方がましやん! そう考えたのだけど、ある人に言わせると「おまえ、お墓参りに行ったからその程度ですんだんや。行ってなければ確実に死んでたぞ」って、なんか悪徳霊感商法みたいなことを言いよる。これが。
またある人は、「ゴリヤクを期待して、お墓参りに行くと逆にひどい目にあう」とか言うし。いやいやお墓参りって、なんでもない日常の心の機微に僅かな幸せの期待を振りまいてくれる程度のものと思っていたら、大違い。

 

  お墓参りとは、命を懸けた人生に血を持ってその厳しさを連射してくれるメフィストの囁きであったのだ。おお、こわああ!

 

    しかし考えてみれば、昔、おじいちゃんの法事でタイから日本に帰ったときに帰りの飛行機でマラリアを発病し、帰国後大阪で即入院し、みんなから
「よかった。よかった。タイで発病したらえらいことやった。きっとおじいちゃんの霊が導いて助けてくれたんや。おじいちゃんの法事があったおかげや」
と言われたけれど、最近の意見では「タイの方がマラリアの良い薬がたくさんあるので、タイで入院した方が、中国人の売春婦の幻覚を見ずとも簡単に治療完治できたはずである」と言う人もいてるので、おじいちゃんの霊にはめられた可能性もあるわけで、本当のところは良くわからない。
  まあそんなわけで、今回の酔っ払い脳挫傷入院によって、僕は「実はお墓参りって行かない方が安全なんじゃないの」と思ったりもした。

 

  しかしである。これが、退院後のフラフラ状態トランス時に、よくよく考えをひねりこんでいけば、果たしてそうでもないような気もしてきた。つまり「やっぱりお墓参りは良い経験であることには間違いがない」ということである。

 

  もう一度考えてみよう。
  新世界で車にひかれかけた時には、それ自体がお墓参りが及ぼす理論を考察する引き金になったし、おじいちゃんの霊に導かれたマラリア入院ではタイでありえなかったかもしれない中国人売春婦との出会いもまた貴重な体験であるといえる。 さらに今回に関して言えば、よくよく考えると命を取り留めて家族や友人たちと語り合う喜びは何事にも変えがたいと感じることが出来たきっかけになったし、脳挫傷による風景の見方がわが町をヒロヤマガタやラッセンに変えてしまったのは大きな喜びじゃないのだろうかとも思う。
  というわけで、お墓参りに行った後、危ない目にあって怪我をするというのは実は本当は素晴らしい事じゃないのだろうかと思ったりもするのである。

 

  そんなわけで、さあみなさん、お墓参りに行こう。そしてその後、大変な目にあおう。頭蓋骨を割って、脳挫傷でぎりぎり生き残ろう。さらに危険極まりない体験の中で人間としての本当の喜びをそこに見出そう。
  ああ本当に人生はすばらしいのだと!


日記18. <ガマンばかりじゃダメ。刹那的に今を生きよう>

  最近、読んでいる本で結構面白いやつがある。
  「EQこころの知能指数」という外国本の訳本である。その本に描かれていることを簡単に言えば「IQというのは大脳皮質の知識理論の能力だけを数値化したもので、実際に社会で能力を発揮できる指標ではない。そしてEQとは、その大脳皮質の働きに情動(感情)を加えたものである。社会で成功する人は理論的な知性と感情の連携が上手く出来ている、つまり情動を理性でコントロール出来る事が大事である。だからIQよりEQで人間を計れ」ということになるのだろうか。まだ全部読んでないのでよく分からないのだけど・・・。

 

  その「EQ・・・」の中で、面白いことが書かれていた。   「マシュマロ・テスト」と呼ばれるその試みは、4歳児を個室に入れてマシュマロ一つを目の前に置き、実験者がこう言う「今から私は用事があって出て行くけど、もし次に私がここに帰ってくるまで、このマシュマロを食べずに我慢できたら、ご褒美としてもう一つマシュマロをあげるよ。でも食べちゃってもいいんだよ。もちろん、その場合にはご褒美のもう一つのマシュマロは無しになるけどね」
  このテストを数十人の4歳児に試してみると、耐え忍びながら我慢してご褒美のもう一つをもらえた子もいたら、我慢できずに食べちゃった子もいた。テストはここで終わりではない。その後30年近くもたってマシュマロテストに参加した子供を追跡調査してみると、「我慢できた子」と「食べちゃった子」の間には大きな隔たりがあったと言う。
  「我慢できた子」は勉強や仕事でも優秀な結果を残せた社会的エリートになっている子が多く、一方で「食べちゃった子」の中にはトラブルメーカーや犯罪を犯した子までいた。つまり、食べたいと思う気持ち(つまり情動)をコントロールできる能力と言うのは人間が成功するためにとても大事なものである。というのが、以上マシュマロ・テストの概要である。

 

  なるほど理性で感情を制御するべきなのだ。制御しよう。我慢だ。がまんだ。感情せいぎょせいぎょせいぎょ・・・。っと考えてみたのだけれど、本当に人間にとってそれが良いことなのかな、と思った。

 

  考えてみれば、4歳の子が「マシュマロもう1個もらってやるぜ。んけけけけ」なんて調子で目の前のものを食べずにいるなんて、気持ちが悪いと思う。逆に「あああ。食べちゃったぁぁぁ」と情動に刈られてマシュマロをムシャムシャしちゃう子は子供らしくて可愛らしい印象を受ける。今の歳になっても、友達づきあいするなら、計算高くて抜け目のない奴より、自然でシンプルな奴の方が、楽に付き合えるもんね。
  もう一つ思うのは「我慢できた子」には、我慢するというストレスの中で盛り上がってくる欲求にほだされ、衝動的に禁を破って食べちゃう物の美味しさが、決して分からないのではないかな、ということである。絶対ダメと言われれば、絶対やってみたくなるもんね。
  情動や感情を剥き出しのまま生きるということが、今の競争社会の中ではアホのように見られがちだけど、「我慢せずに食べちゃう」ことによる「衝撃的な感動」や「メイクドラマ」があることを忘れちゃいけないと思う。
  「EQ・・・」の本はアメリカ人が書いたものでアメリカ的成功至上主義の匂いが少しするけれど、僕にすれば、「いったい成功って何やねん?」という疑問が残る。刹那的に快感をむさぶるエピキュリアン的な生き方を「成功」と言うのはおかしいのだろうか?
  けっきょく、アリとキリギリスのどちらの生き方を選ぶのかということになるのかな。


日記19. <脳挫傷でもビールを飲もう。それが幸せというものだ>

  それは、例の酔っ払い自爆事故で頭を打って、体を痙攣させてから一ヶ月が過ぎたぐらいのことだった。
  脳ミソの回復は順調で、視覚が少しばかりサイケデリックに見えるのと記憶力が悪くなったことを除けば問題は何もなくて、今すぐにでもTOJに応援団長として出場できそうなくらいだった。
  担当の医師は「痙攣の発作がおきるといけないので、しばらくは薬を服用してください。それから普段の生活ではストレスがかからないように楽に過ごしください」と言った。
  そんなわけで、僕はただひたすら穏やかに健やかに過ごすことを心がけていた、そんなある日のことである。

 

  なんだか、どうしてもビールが飲みたくなってしまったのだ。

 

  その欲求はかなり強くて、がまんができない。医者からは飲酒を咎められていたけれど、飲みたいのだからしょうがない。僕は小さなグラスでアサヒスーパードライを口に運ぼうとした。

 

ビールをガマンすることによってストレスがかかっては大変であるのだから。

 

  もちろん「ベロベロに泥酔してやるぜ」なんてことは考えてなくて、ただ古代に発明された地球史上もっとも美味といえる琥珀色の芳醇な飲料水を味わいながら、人類の栄華を寿ぎたかっただけだった。そんなわけだから挫傷をおこした脳ミソに刺激をなるべく与えないように自分なりに考慮した極少量のビールで味覚を感動させるつもりだった。

 

  ところが嫁にそれをみつかった。

 

  怒られたのは言うまでもない。
  「脳挫傷と脳内出血がどうなってもいいの!」という激しいのりで食いかかってくる嫁に対して、僕は「ちょっとぐらいやったら大丈夫やろ! それにこんなふうに興奮して口論することによってストレスを感じることが一番よくないねん。痙攣でもおこしたらどないすんねん!」と言葉とは裏腹にスッカリ激怒し、ちょっと激しい口論になった。
  嫁としては、僕のからだを心配して、「ビールを飲むな」と言ってくれているのだが、それによって、僕がストレスを感じ痙攣を起こしたりしたら、何のための心配か分からないし、僕としても「興奮させるな!」と言いながら自らの言葉にますます興奮激怒するのもまたパラドックスである。

 

  思えば、世の中にはそんなことがたくさんある。
  中学校のときに授業中の教室が騒がしくて「静かにせんかい! キイキイキイ」と発狂して、居眠りしている僕をおこす先生。

 

  あんたが一番うるさいねん。

 

  あと、旅行に行ったりするとよくある。
仕事を忘れて心機一転しようとしているのに、せっかくの旅行のチャンスだからと、いろんな観光地へ走り回って、疲れて、「あんたのせいで、バスに乗り遅れたやんかあ!!」と、よけい不機嫌になったりしてしまうこと。

 

  いったい何のために旅行に行くの?

 

  僕らが陥りやすいパターンとしてよくあるのが、「幸せになるために成功するぞ!」と仕事や勉強をがんばるけれど、結果的に忙しくストレスフルな日常にスッカリ苦しめられてしまうことだ。

 

  何のために仕事をするの? 何のために勉強をするの?

 

  というわけで、成功と幸福はいつも同じものとは限らないと思った。少しぐらいの脳挫傷でもビールを飲むことは幸福なのだ。


日記20. <文明的人間と文化的人間>

  文明と文化というのは似たような言葉で、中には同じ意味で使用する人もいるかと思う。僕が、何かの本で読んだところでは、「文明というのは、なくなっちゃうと生活するのが大変になっちゃう一般に便利なこと」で「文化というのは、大して便利でもなくて、なくなっても生活に支障はないけど、感情的に悲しくなっちゃうこと」らしい。
  別の言い方をすると、「文明というのは電気や水道ガスなどのシステムや飛行機電車、そして自動車などの乗り物、さらにはバイオテクノロジーみたいな最先端技術」であり、「文化というのはお祭りでおみこしを担ぐことからスポーツや芸術、さらには国や地域特有の食べ物とか」となるのか。
  もし今、携帯電話や自動車が使えなくなったら生活するのが不便になる。さらに電気や水道が使えなくなったらどうか。それはもう世界中大混乱に違いない。文明とはそういうものだ。
  逆に落語やサッカーがこの世からなくなったとしたらどうだろう。おそらく落語ファンやサッカーファンはかなりショックを受けて悲しむだろうけど、別に生活していく上でたいした支障はないに違いない。文化とはそういうものである。
  あと、こんな言い方もできるかもしれない。文明というのは「先進的で効率主義で物質的で利潤追求的でドライなもの」である。そして文化とは「感情的な精神主義でノスタルジックで非効率なもの」である。
  そんなことをよく考えてみると、人間でも文明的な人と文化的な人がいることに気づくのである。文明的な人間は、出世欲が強く権威主義的で効率的に物事を進めることで利益を得ることを最高の喜びとする。文化的な人間は、がんこで昔を慈しみ金にもならんことに情熱を注ぎ込む。
  自分はというと、がんこではないけれど、役にも立たない知識を詰め込んでウンチクをたれたりするところが文化的だと思うけれど、効率にこだわって文明的なときもある。
  サッカーのワールドカップやツールドフランスを見ていても、スポーツは文化であるはずなのに、末端では商業主義と結びついているし、携わる人々はそれで飯を食っているわけだから、やっぱりそれは文明的であるといわざるをえない。
  というわけで文明と文化は対極にあるようなソフトとハードのタペストリーであるけれど、お互いは密接に結びついて影響を及ぼしあい、時に一体となることもある。事実フランス語の「文明」ということばには「文化」の意味合いも含まれているらしい。
  というわけで、文明的人間と文化的人間もお互いの何かは役に立つ可能性があることを思索するべきなのはしょうがないことかも。
  で、結局、文明と文化を同じ意味で使う人がいてもそれはOKとするべきなのだろうか?
  ちなみにそうだとしても、「文化住宅」って変な言葉だと思う。どっちかといえば文明的なのにね 。