日記31. <武道としてのケンカについて思う>

  うちのバーには中学時代、番長グループに属していた友人もよく顔を出してくれる。彼らが酔っ払って、話が中学時代のことに及ぶとよく聞くのが「ケンカ」の話である。同じ学年の番長の座を争って誰々と誰々が対立したとか。隣の中学の番長グループと集団でケンカしたとかそんなことである。
  僕自身の中学時代は番長グループとはまったく関係がなく、変態変わり者的な存在だった。だから当時だれが番長なのかも知らなかった。実はオッサンになった最近になって、昔よくサイクリングに一緒に行ったH君が当時の番長だと知って、へええなどと思ったぐらいなのだ。
  元番長グループ靴磨き補佐を勤め上げた友人に聞くところによると、番長というのはケンカの強い人がなれるものだという。

 

  ケンカが強い

 

  僕はその言葉を聞いて、フムムムムと考えてしまった。というのは僕的にはその昔読んだ教育上まったくよろしくない漫画の影響で「ケンカとはルールがない戦いで、相手が降伏するか、究極は相手を殺せば勝ち」という風に考えていたのだ。だからもし僕が格闘家相手にケンカしてボコボコにされも、殺されていなければ逆転を狙って武器でも使って油断を突いて刺しに行けば勝つ可能性もあるわけである。そんな卑怯なと思うかもしれないけれど、ケンカに勝つということは卑怯も何もかも超越したところにあるものだと思っていた。ケンカというのはスポーツでもビジネスの手段でもなくって、野生動物のような闘争本能と超身勝手な感情の噴出がその正体である。だからケンカに勝ったとしても何も獲る物はない。ただ怒りの末に相手のすべてを圧倒したという事実が残るだけである。
  そんなわけで僕が思うにケンカに強い奴とは、ボクシングが強い奴でも日本拳法に強い奴でもなく、「守るべきものがない奴」と言えるのではないだろうかと思った。つまりケンカに本当に勝とうとするならば相手に大怪我をさせたり時に命を奪ってしまうことも覚悟しなければならないし、自分が殺されてしまう可能性もある。そうなれば当然身内の人間を悲しませたり大きな迷惑をかけたりすることもあるわけである。つまり、悲しませるような身内がいない奴が、例え殴り合いが弱いとしても最後には勝つわけである。

 

  ケンカが強い奴とは、相手を叩きのめすためにすべての犠牲を払える奴だと僕は思っていた。

 

  そんなわけで、僕には愛する嫁と仲間がいるので、彼らを悲しませることができないためケンカはしない。ケンカになりそうだったら、適当にあやまって事なきを得ようとするのはみんなと同じだと思う。
  でも、僕の考えである「ケンカとはルールがない戦いで、相手が降伏するか、究極は相手を殺せば勝ち」という意見に対し、元番長グループの奴から大変な否定を受けた。

 

  ケンカにも暗黙の礼儀とルールがあるし、そう言ったものを持ち合わせていない奴(僕のことです)は決して番長になれない。卑怯なことは当然いけない。ケンカとは腕力と相手を思いやる気持ちのあるものが勝つべき類のものである。つまり、お前みたいな奴が、手加減を知らんで人を殺してしまうことがあるのだ。アホが。

 

  と言われた。うむむむむ。なるほどっと思った。
  ということは、暗黙のルールがあることから考えて

 

  ケンカとは武道のようなものだ!

 

  と言えるのだ。
  例え中学生でも腕力を使いながら暗黙のルールを微妙に守り、自らの権威を主張しながら、叩きのめす相手に対する優しさを踏まえ、野性的な力とまわりへの配慮を考え、とても難しい「ケンカ道」に精進することが出来る人間こそが、つまりは番長になれるのだ。

 

  そんな高度な思想と機能を両立させることが番長であることの由縁なのだ。

 

  ただの凶暴な奴は番長になれないのだ。思えば中学時代の番長グループの奴らは皆、会社の社長とか重役になってるもんなあ。と言うことに気づいた。
  ケンカというものはただ相手を叩きのめせた良いものではないのだ。
  僕は、番長クラスの奴らが中学生だった時のレベルに、こんなおっさんになった今にしてやっと追いついたのだ。
  とほほほほ。


日記32. <「見かけ上」と「本質」の関係とは>

  先日ある方とお話をしていて、こんな事を聞いた。「市町村の統合によって、出身の町の昔からの呼び名が消えうせた。とても悲しい」ということだった。僕としては慰めの意味も込めて「名前が変わったって、故郷は存在するわけだから悲しむ事なんかないやん。だって冥王星は惑星じゃなくなっても自然の摂理の中で昔からの軌道を回り続けて何も変わってないでしょ」と言った。
  適当に言ったつもりなのだけど、自分でもその理論はなかなかのものじゃないかと思った。名刺に肩書きがたくさん書いてある人が本質的に優れている人かどうかとは別問題だと思うし、町名が変わってもその街で青春を慈しんだ事実というものは消えるわけではない。つまりは本質こそが大事なことであり、肩書きや見出しや、分類上の区分けによる名詞とかが変わった事について、それほど気にしなくてもよいのじゃないのかと思った。表向きじゃなくって、中身を大事にするべきなのだ。
  俺ってなかなかいいこと言うなあ。と軽く考えてみた。だけど、もっとよくよく考えれば、それはあくまでも理想論の枠でしかないのかもしれない。現実はそんなに甘いものじゃない。
  僕がやっているバーだって、本質的には酒に酔っていろんな話をするための場所だけれど、肩書きとしてのバーの名前は必要だろうし、雰囲気作りのための装飾や照明だって本質から外れた意味としても大事なことなのだ。まずは見た目があるからこそ、本質がついてくるということも世の中には少なくないだろう。とまあ。ひょんな話から、「見かけ上」と「本質」の関係とはナカナカ難しいものだと思った。
  ちなみに冥王星が惑星じゃなくなった事によって、占いの本質としての結果が違ってくるらしいけど、これはいったいどう解釈したらエエのかな?


日記33. <死の直前に見る長い夢>

  今現実だと思っていることが、実は夢じゃないのか。なんて思ったことはないだろうか。僕は世界が妙に現実感を失うことがあって、「実は今これは夢の世界にいてるんじゃないのかな」なんて思うことがある。そして、それは決して寝ている時に見る夢じゃなくって、死の瞬間に見ている夢じゃないのかと思ったりする。どういうことかというと、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や映画「ジェイコブスラダー」のように、人間の脳は死の瞬間に異常なほど活性化してトンでもなく回転を早めるという説に基づくものである。それはちょうど電気がスイッチをオフにしたとたん電圧が上がるようなものかもしれない。死の瞬間に人は高濃度の脳内物質の噴出によって、すごく濃い夢を見る。その夢は高回転で、0.0001秒をまるで何十年にも感じてしまうぐらいすごいものだとしたらどうだろう。そう考えると僕は昨年頭を打った時点で既に死に向かっていて、今感じている現実が実はその死ぬ寸前の長く感じる夢なんじゃないのかなあなんて思うことがある。
  そんなことをある友人に話したら、「ホッペタつねってみたら」と言われた。でも、もしこれが死の寸前の夢ならホッペタつねったって覚めないだろうし、こんな楽しい夢なら覚めて欲しくないと思うと言ったら、その友人は「俺はこんな人生がもし夢なら早く覚めて欲しいと思うよ。よよよよよ。(と一度泣きかける)そして夢が覚めたら現実の俺はきっとアラブの大富豪で美女のハーレムで酒池肉林の毎日なんだよ。にゃははは(といきなり元気になる)」と言った。
  彼には、死の寸前にアラブの大富豪になる夢を見ることを夢見て欲しいもんである。


日記34. <インドのオカマ。ヒジュラの残存エネルギー>

  インドのオカマ(というかニューハーフですね)のことをヒジュラと言うそうだ。インドでは、シバ神が豊満なお乳とペニスの両方を兼ね備えている竿玉突きのニューハーフのような姿をしていると信じられていることもあり、ヒジュラは社会的に役割を持ち人々に受け入れられた存在であると聞いた。
  ヒジュラの社会的な役割とは、子供の生まれた家で歌や踊りを披露して誕生を祝い福を授けるというものだ。毎日、子供の生まれた家を探して、祝いの踊りでご祝儀をもらうことがヒジュラたちの生業だという。でも、どうしてヒジュラが生まれたばかり子供に福を授ける事ができるのか。それは。

 

  繁殖を放棄した生命には子供を成育させるための使われていないエネルギーが残されているという理由らしい。インド人にとって、すべての人のすべてのエネルギーは定量なのだ。つまりヒジュラは、その残されたエネルギーを人類繁栄のためフィードバックすることができるのだ。

 

  そんなことを知って、いろいろ考えた。僕たちにも子供はいないので、当然ヒジュラのように生育のためのエネルギーが残されているはずだから、他人の子供に有益なことを伝えたり、自転車選手の後輩たちの為になることを示す役割が存在しているのかなあと。
  そこで一つの考えると、スポーツをやった事がない人がいたとしたら、スポーツをやるためのエネルギーが残っているはずだから、スポーツ経験がない人こそスポーツする人にとっての重要なヒントを多く持っているのかもしれないと言えないだろうか。
  逆にスポーツで極めた人の内部のスポーツ用エネルギーはすっかり使い果たされて抜け殻のようになっているので、後進の指導にはあまり役立たないのかもしれないとか。
  というわけでヒジュラからヒントを得た残存エネルギーの理論から考えてみると、なんだか不思議なことになってしまう。逆もまた真なりということでしょうか。


日記35. <心と体が「千の風」になるという意味>

  「千の風になって」という歌がある。僕はこの歌が大好きだ。オペラ的というのかテノールというのか、秋川雅史の歌い方は白黒テレビを見ているような錯覚にひきこまれる。でも、この歌の本当の魅力は歌い手の上手さではなくて、その歌詞の内容にあると思っている。いや。歌詞だけでなく、すでに「千の風になって」という題名が宇宙の森羅万象に与えられた輪廻と転生のシステムのすべてを物語っているといっても過言じゃないのかとさえ思う。
  人間の身体は生命活動が停止すると、それを構成していた原子や分子が自然に還る。火葬なら焼かれて気体ほどに細かくなった分子が空気中を舞うだろうし、土葬なら地中の物質になるだろうし、鳥葬ならそれを食べた鳥の身体の一部になる。そうして自然界のいたるところにバラバラに還った物質は、やがて僕たちが鳥肉を食べ木の実を食べる事により再び人間の身体を構成する要素に戻る。つまり僕たちの身体はかつて人間であったり鳥であったり牛であったりウニであったりキクガシラコウモリであったりウツボカズラであったということでもあるのだ。さらには僕たちの身体の一部は、かつて仏陀やイエスキリストや、いかりや長介の一部を構成していた可能性だってあるのだ。というわけで人間を構成する物質はその死後「千の風」になって地球環境にちりばめられ、再び人間や他の生物の身体の一部になるのだ。そんなわけで「わたしは・・・死んでなんかいません」という意味はきっと「私が死んでも私を構成する物質要素は消滅することなくあなたの身体の一部になるのです」ということだと思う。
  ところで「千の風」になるのは肉体を形作っていた物質だけのことでないと思う。一般的な思想の中では、人間の心というものは死後、一つの魂となり、その一つがそのまま別の一人の人間の新たな魂になると考えられている場合が多いようだ。でもどうだろうと思う。心も肉体物質と同じく、死後はバラバラになって、心を構成する「精神構成要素」(そんなものあるのかなあ?)が千どころか那由他ほどの粒子となって空気中をさまよい、その粒子の一つが無数にある他の粒子と結びつき新しい人間の魂を造るとしたらどうだろう。
  「千の風になって」というのは、人間の死後には心も身体もバラバラの微細な粒子になって次の心や身体を作り出すシステムを語っているのじゃないのかと思う。そう考えると僕は死んでも死なないし、別の人間(ひょっとしてイソギンチャク?)の身体の一部になりながら永遠に生き続けるのだ。と思うと、よくわからないけど安定した素晴らしい気分になる。
  僕の葬式には「千の風になって」を流して欲しいなあ。