日記36. <直系の子孫の血の濃さとは>

  僕の生まれ育ったのは大阪の玉出という町だけど、そこで一番古いお寺には、空襲で焼けるまで、けっこう昔からの過去帳が残されていたらしい。その中には僕の先祖に関する情報もあって、親戚筋からこんな話が伝えられている。
  なんでも400年前に紙屋ロクベエという人物が玉出にいたらしい。彼は隣の天下茶屋から玉出に突然現れて、いろんな事業に手を出し町の有力者的存在になったという。そのせいで玉出の光福寺の墓地は上阪家の墓だらけである。父親から聞かされた話によると、その紙屋ロクベエが僕の直系の先祖であるらしい。ちなみに上阪という苗字は明治以降につけられたという。
  少し話は飛ぶけれど、江戸時代の近松門左衛門作の心中物浄瑠璃に「心中天網島」(しんじゅうてんのあみしま)というのがあって、その主人公の名前が紙屋治平というらしい。この紙屋治平が心中して死んだ後、残された奥さんのお春が尼僧になって骨を埋めたのが安養寺という天下茶屋のお寺なのである。紙屋という屋号と天下茶屋という場所への関連から考えて、僕の先祖は近松心中物の「心中天網島」と関係があるんじゃないかと思ってるのだけど、どうだろう。
  そんなことも考えて、玉出の上阪家の始祖である紙屋ロクベエについて、僕はいろんな想像を膨らませた。
  ルパン三世が魔毛狂介の作ったタイムマシンで何百年も過去に旅し、ルパンの直系である人に出会ってみたら彼の顔はルパン三世にそっくりだったという話がある。そんなことから考えて、紙屋ロクベエも僕に似た顔の人物なのかなあと思ってみた。

 

  直系の子孫!

 

  なんて言うとその先祖の血を色濃く残しているような気がするけど、直系というのは人間が都合上作った単位としての家系的に直系というだけで、実際の遺伝子的な濃さから考えると、どうなのかと思う。
  例えば仮に、僕の先祖達がみんな25歳で子供を産んだとすると100年で4代である。紙屋ロクベエは400年前の人だから僕から16代前の人と考えられる。複雑な遺伝子学は良くわからないけれど、あくまで単純に考えて僕には父親と母親の血が50%づつ混じっていると考えられる。するとオジイチャンの血は僕の中には25%ということだ。そう考えていくと、計算上、僕の中に16代前の紙屋ロクベエの血は、なんと32,768分の1、つまり0.003%しか含まれていないことになる。これではタイムマシンで顔を拝見に行っても似てるなんてことはありえないわけで、「いったい直系の先祖とは何ぞや?」っと思ってしまう。

 

  ご先祖様より、隣のオッサンの方が血縁的に近いのじゃないの?

 

  なんてことも思うけど、血以外にもご先祖から伝えられている情報もいろいろあるわけだからお墓参りはきちんと行くことにします。


日記37. <「楽しいことを考えると→脱糞」のシステム>

  僕はワクワクすることを考えると便意をもよおす。
  子供の頃なら遠足の前の日に翌日のことを想像するだけでワクワクして、いても立ってもいられなくなり、便所に駆け込んでブリブリと脱糞したものだった。大人になってからも、スキーやデートや活躍できそうなレースのことを考えると嬉しくなってこれまた便所でブリブリ状態となった。そんなわけで今では「楽しいことを考えると→脱糞」という構図を利用して、便秘気味のときなどは無理やり楽しいことを想像してウンコを搾り出す技まで身につけた。
  以前見たフランスの映画でも、ロリコン変態オヤジが便器にまたがりタバコを吸った後、好きな少女のことを想像して「ああ。僕の子猫ちゃん!」と叫びながら脱糞するシーンが描かれていた。
  そんなわけで僕は、誰でも「楽しいことを考えると→脱糞」というシステムが働くものだと長い間信じてきた。でも、まわりの友人達にたずねてみると意外にも「楽しいことを考えると→脱糞」というシステムを持つ人はほとんどいなくて、僕は自分だけがロリコン変態オヤジと同等であることを知り、はからずもショックを受けた。
  ところがよくよく話を聞いてみると「精神的に緊張すると→脱糞」というシステムを持つ人は意外に多くて、いずれにしても精神的な刺激が大腸の収縮に影響を及ぼすのは確かなことらしい。
  そう考えると世の中には、泣きながらウンコをちびる人や、怒りながらウンコをちびる人などもいることは十分に考えられる。ちなみに僕は笑いすぎてウンコをちびったことがあるけれど、これは常人としてごく正常な反応の範囲に収まるのではないだろうか。これを読みながら「ああ。俺にも経験ある」と頷いてくれる方と酒を飲みながら体験談を語り合いたいもんである。きっと楽しいだろうなあ。と、そんなことを考えるとワクワクして、ああウンコしたくなってきたあ。


日記38. <高い肉を食べて日本の文化を考えた>

  貧乏なくせして、先日チョット贅沢に高い肉を食べにいった。A-5というランクの和牛肉である。なんでも牛肉にはイロイロなランクがあって、A-5というのはその中でも最高ランクのものらしい。
  学校の成績も「A」と「5」が最高なように、牛肉もそのノリでA-5というのはスーパー優等生であるらしい。ちなみに小学校の時の僕の成績はABC評価で「B」と「C」のオンパレード。いっぽう嫁はオール「A」。だから世の中きちんと不思議なバランスが取れているわけだ。
  肉の話に戻る。その焼肉屋では、A-5ランクの肉は小さな肉片が四切れで1500円もしたのだけど、知る人に聞くとそこはボッタクリでも何でもなくってかなり安いとこらしい。軽くあぶって口に含むと確かに自然な甘さの脂の香がブワブワと味覚を刺激し、それは絶品だった。でも、正直にいうと僕自身が安い肉を食べなれているためか、なんだか物足りないような気がしたのも事実だった。

 

  それは食感のためである。

 

  A-5ランクの肉の味は文句のつけ様もなく美味しいことに違いはない。しかし、箸で切れるほど柔らかくて、歯ごたえ的には肉を食べているという感じがしないのだ。もう少し固い方が美味しいと思ったのだ。
  同じような思いを以前にもしたことがあった。とても高級なうなぎの蒲焼をいただいた時のことである。前述の肉同様、その味は絶品で豊かな風味が上品さをかもし出していた。だけど食感に関しては、やっぱり柔らかくて、どうも物足りないと感じたのも事実だった。安物の蒲焼でも表面がサックリカリッと焼いてある方が僕は好きだなあと感じた。
  僕のゲスな味覚は問題外として、高級な料理というのは食感の上品な柔らかさが高級たる由縁のひとつなのかなと思った。
  僕が思ったのは、この日本で柔らかい料理が高級であるという意味は

 

  年をめされた方は柔らかい物が好き。

 

  ということではないかと思った。
  ある説によると、

 

  日本文化というのは年配の方のための文化であるらしい。

 

  月代のヘアースタイルも頭がハゲた場合に都合よく出来ているし、着物も少しお腹が出てきたぐらいの方が格好よく見える。同じように食べ物も、歯が悪くなった年配の方でも安心して食べれるようなものが「高級の条件」となりえたのではないだろうか。

 

  そんなわけで高級料理は柔らかいものが美味しいとされるのでは・・・。

 

  ちなみにオーストラリアでたこ焼き屋をはじめた日本人がいたらしいけど、店はぜんぜん流行らなくってすぐつぶれたそうな。理由は白人の食感からすると、たこ焼きのフニャフニャした歯ごたえはあまり美味しい物ではないということらしい。
  そんな意味から考えると、欧米人たちは日本の高級料理をどう評価しているのかな?


日記39. 「父兄」という表現について考えた

  いつも面白い話を聞かせてくれるお客さんがいます。昨夜も面白かった。
  僕はその時、「ある中学の先生に聞いた話では、今の生徒の父兄の離婚経験率は50%を超えているそうだ」という話をしました。その時、僕が言った「父兄」とはその文列の中では「保護者」という意味です。するとお客さん、その「父兄」という言葉に反応されて。「父兄という言葉は意味を深く考えて使うべきだ」とおっしゃられました。
  どういうことかというと「父兄」という言葉は家の長は男であるべきだという軍国主義的な意味をはらんでいるものだということらしいです。法的にも男女が同権になっている現代で「父兄」という言葉を「保護者」という意味で使うのは法律違反でもあると。
  確かに「父兄」なんちゅう言葉は最近あまり使わないのですが、僕的には、言葉というのは元々の意味から便宜上の記号のようなものに変わっていくものだと思っているので、「保護者」という意味で「父兄」という表現をする人が男女差別をするわけでなければ、記号として「保護者」という意味の「父兄」という表現を使っても差し支えないように思ったのです。
  しかしこっちに悪気がなくても「父兄」という表現をして気を悪くする人がいるかもしれないので、やっぱりよく考えて使うべきなのかなあ。ううん。簡単に会話するだけでも言葉を選んで考えなければいけないのだなあ。生きるって簡単なことじゃありません。
  ちなみに「へちまコロン」とは「オーデコロン」から由来する言葉ですが、「オーデコロン」とは「オーデ(の水)コロン(ドイツのケルン)」つまり「ケルンの水」という意味なんです。だから「へちまコロン」だと「ケルンのへちま」という意味になります。「へちまコロン」とは化粧水の一種なので正しい意味を考えると「オーデ・へちま」つまり「へちまの水」となるのが正しいのではないでしょうか。それでも「へちまコロン」は便宜上の記号としてみんなにわかりやすく使われているので、それはそれでよいのでしょう。
  「父兄」も元々の意味とは違うけれど、「保護者」という意味で使うことも理解していただければうれしいです。でも、イデオロギー的なものが絡んでくれば、へちまコロンのようにはいかないのですね。
  いろいろ考えて少し賢くなったかな。ありがとうございます。


日記40. 「姦しい」の意味から考える古代日本の女性の地位

  先日、ファミリーレストランで遅い昼ご飯を食べたときのこと。時間は午後3時を過ぎていて店内は僕とタクリーノオイルのサコタニさんの二人だけだった。シンとした雰囲気の中、男二人で静かにメシを食っていた。

 

  そこに突然、十数人のオバチャン軍団が登場した。

 

  僕らのすぐ横のテーブルに陣取る同窓会風のオバチャン軍団は見たところ60歳前のじゅくじゅくの熟女たちで、全員が抹茶アイスを注文して楽しそうに歓談されていた。とたんに静かなファミレスは「おっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほ。ピーチクパーチクピーチクパーチクピーチクパーチクピーチクパーチクピーチクパーチク」的な、おばさんたちの語らいで耳障りなほどの喧騒につつまれた。
  やかましかった。こういうのを「姦しい(かしましい)」っていうのだなあ。と思った。しかし考えてみれば「姦しい」って英語で何て言うのかなあ。やっぱり「noisy by women talk」となるのかなあ。日本語ではそんな「女の人がたくさん集まって、その声が耳障り」なことを「姦しい」っと一次名詞(複合名詞ではない普通名詞という意味です)で表してしまう。

 

  つまりそれは、日本は古来から女性の立場がけっこう高くて、卑弥呼に代表されるような女権社会の風潮が強い証拠ではと、僕は考えた。

 

  たとえば「牛」はイギリスでは古来から大事な家畜だったから雄牛はoxで子牛はcalfで牛肉はbeefという具合に日本語では二文字の複合名詞になっている言葉がひとつの単語になっている。同じように「米」は日本では大事なものだから英語では二つ以上の単語でしか表せない言葉が「飯」「稲」「餅」っと普通名詞で表される。ちなみに英語では左から「boiled rice」「rice plant」「rice cake」である。

 

  世界中どこの国でも大事なものは複合名詞ではなく、普通名詞で表わされるのだ。

 

  そんなわけで「女性が集まって騒がしくしている様子」が「姦しい」という普通名詞で語られるということから、女性が集まって騒ぐことが許される。そんなことがよくみうけられる。というわけで、日本では古来、女性の地位がけっこう高かったということかなと思った。
  ちなみに女性の地位が高い国は平和らしい。戦争になるとやっぱり男の力が重要とされるからね。つまり日本語の創世記というのは平和な時代だったんだなあと思いました。
  今も平和だから抹茶アイスを食べれるのだ。