日記41. 最近の若いやつの気質が変なのは僕たちのせいなのか?

  先日タクリーノに大学院で研究員をされている人が来た。その人の専門は「生活保護」であるという。
  西成は全国で一番、生活保護を受けている人が多く、また受けやすいともいう。そうした中で彼は生活保護の実態を調べているという。
  僕らがよく聞く話では、「暴力団の人が道端で何もわからずに寝ているホームレスの人を捕まえて(スカウトして?)福祉事務所へ連れて行き生活保護を受けさせ、彼をアパートに住まわせて月々数万円ほどを与える。あと数万円は自分らがピンはねするという」なんて手法とか。
  実際、ベンツに乗っているのに生活保護を受けている人や、働く能力があるのに楽をしたいから、法の目をくぐり抜けて、生活保護を受ける人も多いという。それにより不法に金をせしめている人もいるのである
  しかし、タクリーノに遊びに来てくれた大学院研究者の話では、

 

  「生活保護というのは、一度受けると働かなくてもそれなりの生活ができるので抜け出すことが非常に難しい『麻薬』みたいなものである」

 

  という。
  そんな意味もあって、「生活保護のあり方自体を根本から考え直すべきである」と、その彼はイイ感じで酔いながら熱弁してくれた。

 

  彼の話の中で印象的だったのは、生活保護の希望者が50代60代の年配の方より20代30代の若者に多いということだった。

 

  年配の人たちは意外と「生活保護を受けれますよ」と言っても、「いやいや。できる限りは自分の力で働いて、もうどうしょうもなくなったらお願いしようかな」という感じなのに対して、若い人たちはというと

 

  「上手く手続きさえすれば、働かなくて金がもらえるの? じゃ生活保護受けまーす」

 

  てな感じらしい。
  なんとまあ人生を舐めとるのかと思う。5000年前のエジプトの象形文字からも「最近の若い奴はなっとらん!」なんてフレーズが出て来るそうだけど、僕にしてもエジプト人級なのである。
  もちろん若くても頑張っていて僕よりもシッカリしている人も多い。ここに言うのはアベレージでの話である。
  ファミコンゲームのやりすぎで現実と仮想の重要さが区別できず、熱中できるライフワークもなく物事に打ち込めない。苦労を美徳とせず楽な方に流されることを恥ずることもない。そんな奴が多いのでは?
  ああ。情けないとも思うけど、古代エジプトでも同じことを考えていたわけだから、そんな若いやつ気質も果たして未来社会に適応するある種の進化ではないかなとも思う。つまり若いやつらが僕らから見るとだらしなく見えたりするのは、決して彼らが悪いわけじゃなく社会によってそうなるべき影響を受けているからである。そしてそんな社会を作り出したのは僕らも含めた世代の責任であるのだ。
  僕らは彼らを責めることが出来ないのだ。そして彼らの変化がもし進化なら僕たちはとんだ考え違いをしているということになる。
  考え込んでしまう今日この頃です。


日記42. 娯楽の種類を少なくすれば「打ち込む気持ち」が芽生える?!

  前回の続きっぽい話です。
  先の大学院研究者の方による「最近の若い人は現実の中で虚構を楽しむばかりで、ひとつのことにガムシャラに打ち込む気質にかけている人が多い」という話。
  僕たちは「スポ根ドラマ世代」で、苦しくったって悲しくったってコートの中では平気だったけど、今の若い人たちは確かに少し違う。僕たちは、苦しみと苦労の先に得たものに「充実感」という付加価値が添えられるのは当然と感じるのだけど、まず苦しいことがその時点で耐えられないと、思う若い子も多いらしい。
  世界的なレベルで、自転車競技を初めとする有酸素系しんどいスポーツの競技人口は減っているらしく、大阪全体の高校の自転車部の登録者数は20名とか聞いて驚いた。僕らの頃には一校で20名ぐらい部員がいた高校もあったのに!
  大学院研究者氏によるとこうした現象は「しんどい系スポーツ」だけではなくすべての趣味の分野に起こっていることだという。

 

  結論から言うと「娯楽が多すぎる世の中だから!」だそうだ。

 

  50年程前のツール・ド・フランスのビデオを見たのだけど、今とは比べ物にならないぐらい観客の数が多い。ゴール前を囲む人垣は現在の3~5倍はいるように見える。つまり50年前には娯楽の数も今ほどたくさんなかったので、ツールの時期にはツール以外にイベントもそれほど多くなくて、それに観客が集中したのだろう。
  今はもう大変である。ある日曜の一日に僕が参加できそうなイベントを調べてみると、それだけで心と体がバラバラになりそうなぐらい多い。

 

  単純に娯楽としてのスポーツの数が増えるとチャンピオンの数も増える。すると一人あたりのチャンピオンの価値というのは小さくなるのではないのだろうか。

 

  世界に陸上競技しかスポーツがないとすれば、そのチャンピオンはすべてのスポーツの王者ということで価値が高いけど、1000競技もあれば価値は1000分の1になるという理論はどうだろう。
  チャンピオンの数が増えて価値が下がることによって、若い人たちが一つのものに打ち込むことに対する疑問を潜在的な中に抱えているとすればどうだろう。そうしたことがモチベーションの妨げになり、「スポ根精神」を無くしてしまうとしたらどうだろう。   もしそうだとすれば

 

  一つのものに打ち込む心を大切にするため、スポーツと娯楽の数を割愛するべきだ!

 

  ということになるのだろうか。極論めいてしまいました。
  「このまま世の中に娯楽が増えていくことが人類のためになるのかなあ」と考えるのは、きっと僕の頭が古いのでしょう。
  逆に、「娯楽の数が増えて、打ち込むものが無い若者が増えることも、大きな流れから見れば大事な意味がある」と考えるべきかな・・・?


日記43. 資本主義が進めば自然に社会主義になる!?

  うちの実家は大阪の西成で、小さな化粧品屋を営んでいるのだけど、両親に聞くと経営状態は最近とてもよくないそうである。でも、それは化粧品屋だけのことではないらしい。本屋でも酒屋でも自転車屋でも銀行でも同じだ。大きな店とか企業体の方が資本力もあるし品揃えも良いということで儲かるように出来ているらしい。それが資本主義経済社会なのだ。システムとして大きなお金をたくさん回したところに富が集中するように出来ている。
  そんなわけで企業やお店は大型になっていく。大型店は確かに便利で、僕も本やCDを買うなら電車賃を払ってでもナンバあたりの大きい店に行く。銀行も「△△××〇〇」なんて、幾多の合併の果てに奇怪でイビツになってしまった名前のところに預金をしている。
  それは企業やお店だけでなく国家レベルでも同じことである。ソビエト連邦は崩壊しちゃったけど、EUが出来て、アジア経済圏統一思想なんてのもあり、世界国家も本屋や銀行と同じく統一されて大型になっていくのだろう。

 

  でも、このまま世界のすべてが統一されて大型になったら未来は一体どうなるのだろう?!

 

  世界の国は統一されて一つの国家となり、日本はそんな「地球国家」の「日本州」となる。アメリカは「北アメリカ州」と「南アメリカ州」だ。というわけで競争のない安定した国際協調となるのか。会社もしかりである。トヨタもGMもシマノもカンパニョーロもマイクロソフトもアップルもすべて同じ会社の一部門となるのだ。コンビニでも、ローソンも7イレブンもサンクスもファミリーマートも全部同じ会社の傘下になるのだ。
  そうなれば世界は一体どうなるのか? 企業間での競争がないのだから製品開発はそれなりになって、個性的な物は少なくなるのじゃないのかな。しかし人々の生活は安定するだろう。ガムシャラに働く人も少なくなって、給料はみんな一律に近くなっていく。人々の興味は個人が利益をあげたりオシャレをすることではなく、国家としてのプロジェクトの宇宙開発とかに向けられていく。
  って、そう考えると、資本主義経済が進んで合併が繰り返されると

 

  自然に社会主義になってしまうのだ!!

 

  驚きました。資本主義って社会主義になるための導入形態であったわけです。何百年後か分らないけど、その時代には人間のモラルがもっと崇高なものになって「地球国家」の首脳たちが私利私欲に走らないことを祈ります。

  ちなみにその時代に酒場のバーはどのようになっているのだろうか? 本屋や酒屋が大型店になっても、バーは大きければ良いというわけではない。小さくて個性があって人間的なボソボソ話もできるから良いはず。そうなると何年経ってもバーは今と同じ形態でありつづけるはずだと思う。

 

  つまり、社会主義状態になった数百年後には世界統一大企業と個人バーという二つの経営形態のみが残る時代となるのでは?!

 

  そんなこと考えながら個人経営のバーをやってます。今は新メニュー「玉出ハイボール」の開発をしています。タクリーノ3周年アニバーサリーまでには完成したいでーす。


日記44. おかげさまでタクリーノは3周年を迎えます

  僕が過去に勤めた会社は全部で五つである。そして、そのほとんどを3年で辞めている。僕をよく知る人たちの間では「上阪卓郎3年限界説」というのが流れているらしい。これはある意味正しい。しかし、「あいつは3年すると物事に飽きる」という風に誤解もされているらしい。実はそんなことはない。
  僕が勤めたほとんどの会社では、入社してすぐに中身がよく見え出して「なんじゃぁ。こんなとこでずっと仕事するの嫌やぁ。いきなり辞めたいわあ」と思ってしまうのは事実であった。しかし、これは変な会社に入ってしまったという訳では決してなくって、僕自身が会社員にソモソモ合わないタイプの人間だったからだと思う。
  僕的には「いきなり辞めたい」のだけど、だからといってせっかく入った会社をすぐに辞めてしまっては、得るところが何もないと考えた。嫌な会社でもきっと体験することにより自分が成長する為の何かはつかめるのではないだろうか。それに時間がたてば嫌なところも嫌じゃなくなるかも、とも考えた。
  確かに会社では色んな経験や勉強を「お金を貰いながら」させていただいて、ありがたいことだったと思う。だけど結局はほとんどの会社を好きになることが出来ず、「石の上にも三年」という言葉どおり3年間耐えてから、別のステージへと挑戦することになり、「3年限界説」なんて言われるようになった。僕としては「嫌でも3年もガマンできるエライ奴」とか言って褒めて欲しいぐらいなのに。
  そんな僕が「ダイニングバー タクリーノ」をはじめてもうすぐ3年になる。はじめたころは知人達にイヤミったらしく「3年たったら次は何すんねん」なんて言われた。しかしながら自分のペースで仕事をすることは会社勤めより、自分の性分に合っているようで今のところ辞めたいとは思わない。ソモソモやりたいからはじめたのだから辞めたくなるわけがないとも思う。
  というわけで「3年限界説」に異論を唱える僕自身としては、今後を占う意味で「タクリーノ3周年記念パーティー」を楽しく盛り上げたいと思う。3年たったとたんにやる気を喪失することが無いよう祈ってください。よろしく。

 

  ☆ ダイニングバー タクリーノ 3周年記念パーティー 2008年12月10日(水)
  場所:もちろんタクリーノ
  時間:19:00~適当に
  会費:普段と同じショットオーダー
  参加資格:生きてる人
  その他:たぶん板東道生が来てくれます。少しながらのサービスフードとプレゼントもあります!

  たくさんの方の参加をお待ちしております。よろしく。

 


日記45. 「コペンハーゲン解釈」は本当に正しいのか?

  最近チョット気になっているのが「コペンハーゲン解釈」というやつである。
  それは物理学の話なのだけど、科学と哲学の狭間にあるようなことらしく、とても不思議で興味深いことなのだ。
  それをメチャメチャ簡単に言うと、どうやらこんなことらしい。

 

  すべての物質は人間が観測した瞬間に粒子が集結して、存在と形を作り出す。だから、人間が見ていないところではバラバラになっていて存在しているといえない状態なのだ!

 

  うー。自分で説明していても、よくわからん。読んでる人は何のことやらサッパリだろう。
  たとえばツボの中にお菓子を入れるとする。ツボのフタを開けて中を覗き込むと、そこには確かにお菓子が見える。つまりお菓子が存在していることは間違いがない。
  ではツボにフタをしてみよう。テーブルの上に置かれたツボにはフタがされ、中身が見えない。でも、中にはお菓子が入っているはずだと思う。
  ところがである。「コペンハーゲン解釈」によると、

 

  フタをしてしまって観測が出来ない状態のツボの中には、お菓子が入っているとはいえないのだ!

 

  人間が観測できないツボの中のお菓子はバラバラの粒子になっていて、「お菓子」とは呼べない状態の存在であるというのだ。そして人間が見た瞬間に実態が出来上がる。と
  いや。ほんまメチャメチャおかしな理屈だと思う。でも、アインシュタインの時代から、とても偉い天才的な物理学者の方々が考えに考えた末にたどり着いたのがこの「コペンハーゲン解釈」なのだから、僕ら凡人が「それは変やで」とも言えない。
  かの偉い学者さん達が、どうしてそんな考えにたどり着いたかというと、それは「二重スリット実験」という実験で、スリットの隙間を通る粒子が既知の理論上不可能である結果を引き起こすことからはじまったらしい。説明するのは難しいので、詳しくはこちらのサイトをhttp://www.h5.dion.ne.jp/~terun/saiFrame.html
  とにかく「二重スリット実験」の結果が正しいとするならば「物質は人間が観測した時だけ存在する」としなければツジツマが合わないということなのだ。

 

     僕はこの「コペンハーゲン解釈」を知ってから、人間の存在の意味を深く考えるようになった。もしこの広い宇宙に知的生命体(人間)が一人もいなければ、宇宙を観測することが出来ない。観測できなければ「ある」とは言えない。

 

  つまり、宇宙は自らを存在させるため、この世に人間を生み出す必要があったのではないのか。それがつまり人類存在の意味なのではないのか!

 

  なんてことを思っていた…。

 

  でも、最近よく考えたら、「やっぱりコペンハーゲン解釈って、おかしいんとちゃうのん」てなことも思いはじめたのも事実だ。
  このコラム「日記:10」の「お墓参りに秘められた事実のセオリー」で書いたように、現在わかっている科学は完璧なものではなく、50年後100年後に新しい理論が発見されて今現在では説明がつかない幽霊やUFOも科学理論で説明できる日がくるかもしれないということである。
  そんなわけだから「二重スリット実験の矛盾」を今の科学だけで説明しようというのが無理な話なんじゃないのかなあ。

 

  素粒子の新しい動き方が発見されれば、人間が見てなくったってツボの中のお菓子は存在するに違いないと思うんだけど。

 

  どうかなあ。
  まあ「コペンハーゲン解釈」はあくまで「解釈」であって「コペンハーゲン理論」ではないということもあるし。
  ちなみに「コペンハーゲン解釈」については、僕が書いた小説「ヴィシュヌ牛太郎の功績」にも出てきます。タクリーノでプリントアウトしたやつを貸し出ししてます。よかったらどうぞ。