日記51. 不況も草食系も「ゼロ成長社会」の布石なのだ

  最近、不況です。
  それで嘆かわしいことが多い。車が売れなくて、アメリカでも日本でも経済の牽引役が衰退してみんなの購買意欲がなくなっている。売れるのは安いものだけだ。そんなわけで物の値段は下がってデフレになる。デフレになると、利益率が低いから賃金も安くなって、マスマス購買意欲がなくなる。購買意欲がなくなると物が売れず、不況になる。いわゆるデフレスパイラルというやつだ。
  経済不況だけではない。嘆かわしいことは、まだある。若者の生態に関してだ。なにやら最近の若者達には「物欲」が少ないらしく。アンケートのよると「いま一番欲しい物の一位」は「ユニクロ商品」だそうだ。これが50代とか60代の人たちなら「高級車」とか「ブランドファッション品」とかなのになあ。
  最近の若い人たちは、草食系というのか、酒もあまり飲まず、パーティーは家でやり、車も免許も持たず、海外旅行も外国語を使うしんどさから、あまり行きたくないらしい。
  まあこれではマスマス景気も悪くなるわなあ。だいたい宵越しの金を持たないような人がたくさんいてはじめて経済は成長するものなのだ。
  でも、よくよく考えてみれば、不況も草食系も実はそれが正しい方向ではないのか! そんなことを思いはじめた。

 

  そこで思う言葉が「ゼロ成長社会」というやつだ。

 

  テレビでは「どこそこの国は経済成長率ホニャララ%」うわーすごい。とか何とか言ってるけど、そもそもどうして経済は成長しなければいけないのか?
  経済成長があるということは、文明的に人々が便利で楽で美味しいもの食べて楽しいことできて、無限にわがままに肥え太っていくということだ。でも、そんな成長経済社会によって、地球の資源は枯渇していき、環境破壊があり、物質的で金やプライドを第一に考える人間が増えていくということではないのか。そんなことがいつまでも続いてよいことだろうか。
  ただお金をもうけるということを追求することによって「人間の心」という次元でマイナスなことが多くなるというのは皆さんが理解している通りだ。
  人間の心の喜びとは、経済成長と関係がない。そんなことを考える人々が提案しているのが「ゼロ成長社会」という概念だ。
  つまり「経済成長が伸びれば良し! なんてアホな考えは捨てて、今のレベルの生活を維持する中で精神的な喜びを充実させて人類を幸せに導こう」というのが「ゼロ成長社会」の考えなのだ。
  そう考えてみれば、車が売れないのもエコの面でプラスだし、デフレで利益が下がるのも「儲ける」ことが目的のビジネスに「回していくこと」を目的と置き換える「ゼロ成長社会」でのプラス面がある。
  若者の草食系生態も同じである。質素に生きることは「ゼロ成長社会的観念」からすると、正しい方向に進んでいるのではないのか!
  僕もバーなどやっている関係、不況により打撃を受けて貧乏生活はマスマス深まっていく。悲しいような気もするのだけど、実はそれが人類の正しい方向性なのじゃないのかな。
  いままでみんな贅沢しすぎた。ずっと未来永劫、こんなことは続かないし、不況や若者の生態も、価値観をがらりと変えた明るい地球の未来を示唆しているのではないのかなあ、と思う。つまり

 

  儲からないのは地球の未来にとってよいことなのだ!

 

  これは貧乏な自分を慰めているだけなのかな。自分でもよくわかりません。


日記52. 猫タイプ人間と猫好きから考える性格占い

  僕は猫好きである。散歩中でも用事があっても道端で猫を発見するとジリジリと近づいて接触を試みる。たいていの猫は警戒して逃げていくのだけど、時に人なつっこい奴だと背中や喉をさわらせてくれる。そんな時はとてもうれしい。まるでどこかのバーか居酒屋ではじめて出会った女と速攻でエッチが出来た時のような、それはそれはサプライズである。
  猫って気ままで自由である。犬みたいに愛想もしないし、自らじゃれ付いて来ることもあまりない。
  僕は自他ともに認める猫形性格人間である。だから、猫の行動を見ているとまるで自分を見ているようでもあり、また自分が望んでも出来ない自由な行動パターンを繰り広げてくれるところがなんだか心地良いのだ。

 

  つまり僕自身が猫タイプの人間であるがゆえに猫好きであるといえるのだ。

 

  ところがである。猫タイプ人間は必ず猫好きかといえばそうでもないらしい。僕の知人で猫タイプの奴がいるのだけど、そいつは犬好きなのだ。彼いわく「僕は人に愛想はしないけれど、人から愛想よくされたい」と。
  なるほど、わかるような気もする。自分は猫みたいに自由で気ままで無愛想でも、人からは優しく気を使って欲しい、ってことか。
  「でもそれって甘えたというかワガママとちゃうのん」って、言ったら「自分と同じタイプの猫が好きなおまえはナルシストや」って言われた。どうやねんやろ。
  逆に犬タイプの人間で猫好きの人っているのかなあ。その人は犬みたいに他人にへつらったりするし愛想も良いけど、猫にシカトされたらたまらんうれしいって人やなあ。それってもしかして「マゾ」なんかなあ。
  そんなわけで「犬猫タイプ好き嫌い性格占い」できました。

 

  猫タイプ→猫好き=性格に歪みのあるナルシスト
  猫タイプ→犬好き=甘えたワガママ、ひょっとしてS
  犬タイプ→犬好き=健全で前向きなナルシスト
  犬タイプ→猫好き=サービス精神旺盛でもM

 

  どうでしょう。当たってますか?


日記53. お漏らしパンツを洗って考えた。「穢れ」について

  僕の本業は飲み屋のバーのマスターなのだけど、副業で自転車用品の販売もしている。副業のメインは全国の自転車屋さんをまわって、商品を卸すための営業をすることだ。
  ちなみに僕の最近の営業スタイルは、背中にリックサック(着替えや下着、歯ブラシなどが入っている)を背負い、折りたたみ自転車と鉄道を駆使して店店を回るというものである。
  先日、そんな風体の営業で愛知県の三河地方をまわった。
  そのとき僕は、知立市あたりで次の店を目指して折りたたみ自転車をこいでいた。もちろん背中には生活用品のリックサック。
  そこで思わぬアクシデントが僕を襲った。
  オナラが出そうになったのだ。ごく普通のオナラだと思ってなんの躊躇もなく目一杯放屁したら、これが大変なことになった。恥をしのんで書くと

 

  実まで全部いてもうた!!

 

  ど、ど、ど、どうしよう~。あたりを見回すと畑や田んぼばかりでコンビニやパチンコ屋とかトイレ施設の影も見えない。おまけに雨も降ってきた。脱糞した量は少なくなさそうだ。パンツの中から熱気がこみ上げてくるのがわかる。早く脱がないとズボンまで汚染されかねん!
  視界の果てに小さなマンションと駐車場が見えた。雨に打たれ命からがらそこにたどり着くだけでもう何の余裕もない。

 

  僕には、駐車場の一番すみの少し死角になる場所でパンツを履きかえる選択枝しか残されていなかった~。ああ。

 

  雨はザンザン降り続いていた。屋根もない。僕は意を決して下半身丸裸になり、ティッシュで股間をキレイキレイに拭いたあと、リックサック内から取り出したサラパンツに履き替えた。
  それにしても誰かひょっこり現れたらどうなっていたことやら。

 

  「すいません。わてウンコちびってパンツかえてまんねん。けっして変質者やおまへんで」

 

  なんて言わなきゃいけなかったのか~。
  とにもかくにも僕は成功した。

 

  雨降る見知らぬ土地で不意の脱糞。しかし勇気と希望を持って冷静に対処し、そして今生還したのだ!

 

  よかった。よかった。しかし問題は実はこれからである。
  そのお漏らしをしたパンツというのが嫁からもらったポールスミスの高級パンツと言うこともあり、僕はそいつをビニール袋でキープした後、少し走ったところにあったコンビニの便所で洗って持ち帰った。

 

  さて出張が終わり大阪に帰ってきた。僕は「雨の三河でちびった出来事」を友人達に面白おかしく話して笑いを取っていた。その時、知人のC嬢のリアクションで気になったのが

 

  「なんでそのパンツを捨てなかったのか? ポール・スミスとかいう問題ではない。一度お漏らししたパンツを洗って再び使うという行動が理解できない」

 

  という意見だった。
  僕は「あなたは物を大事にするという奥ゆかしい精神に欠けている」と言ったのだけど、その人は「どのように言われても、そのパンツは捨てるべきだったと私は思う」と言う。
  そんなことがあっていろいろ考えた。

 

  僕はパンツは洗えば元通りキレイになるものと思っている。でも、C嬢にとって「そんなパンツは洗っても落ちない汚れを超越した汚さが残っている」ということらしかった。

 

  すなわちそれは「穢れ」のことである。

 

  僕は、スーパー現実主義ともいえる仏陀の原始仏教を、宗教ではなく哲学として信奉している。だから「幽霊」も「死後の世界」も「神の存在」も「お祈りのご利益」も基本的には信じていない。当然、「穢れってなんや? そんなもんあるけえ。洗ったらキレイになるやろ」てな感じである。
  でも考えて見れば「穢れ」を気にするC嬢は、僕とは違う心なりの人だ。きっと神様や仏様に手を合わせ、自分の想像を越えた超自然に対し恐れと尊厳の念を忘れないに違いない。
  つまり、僕が「奥ゆかしい精神に欠ける」と言ったC嬢こそ実は「穢れによる超自然にひれ伏す奥ゆかしい人」だったに違いない。
  ひょっとして、僕がお漏らしパンツを洗うのはただの貧乏性だけなのか?
  そして、C嬢は「おむつ」ではなく「パンパース」で育ったのか? とかまあイロイロ考えました。
  いずれにしても、あれ以来、不用意にオナラをするのがメチャ怖い僕です。


日記54. 迷信とかを信じる心が人生を楽しく彩る?

  僕は神様を信じない。幽霊もいないと思うし、死後の世界もないと思う。そして迷信や呪いに惑わされることは愚かなことだと思う。
  どうして僕がそんな風に考えるかと言うと、それは仏様の影響である。仏教にも死後の世界はあるし、仏さんを神格化している。だけど、仏さんが唱えた原始仏教っていうのは宗教ではなくって精神哲学であるらしい。だから、それは迷信っぽくない。なんだか合理的なのだ。
  2500年前に仏様はこんなことを言った

 

  「人間が幸せになるためには、神様みたいな存在するかしないか、よくわからない不確かなものに手を合わせても、しゃーないんちゃうん。幸せになるためにはもっと現実的に考えてみろよ。お祈りするより自分の心をコントロールして『幸せ!』って思い込める自分を作り上げることこそ大事じゃないのか」と。

 

  でもお寺ではお経となえて手を合わせて仏さんや先祖の霊に拝むやんか?!と思うやろ。ところが、それは後世になって出来た大乗仏教という宗派やからこそ。日本で大多数を占める大乗仏教。これ実は仏様の真の教えから少し外れた考え方やて知ってましたか?

 

  仏様すなわちゴータマ・シッダルータの本当の教えは「迷信に惑わされるな。現実だけを見つめて賢く生きろ」ということなのだ。

 

  そんなわけで宗教の祖としてではなく、哲学者としての仏様を信奉する僕はいつしか、神様も幽霊もオバケも妖怪も死後の世界や祟りや呪いにいたるまで、まったく信じない超現実的な人間になっていた。
  だから、もし幽霊出没現場に一人で出向いて悪魔を呼ぶ歌を一晩中歌ったとしてもゼンゼン怖くない。だって悪魔も幽霊も存在するはずないと思っているから。それより一晩中歌を歌いつづける集中力があるかが心配だし、朝を向かえて歌い疲れ果ててシンドイ思いをする方がずっと怖い。

 

  しかしながら実を言うと最近になって少し考え方が変わってきた。
  仏様を信奉する心は変わらないのだけど、超自然現象等々を信じれない自分がなんだかロマンチックに欠ける人間だと思いはじめたのだ。

 

     先日TVを見ていると「陰陽師」についての番組をやってた。なんでも平安時代には陰陽師が星占いによって皇室の人事を操作したり、祈祷によって病気を治療したそうな。平安の昔にはそんなことが大マジメに信じられていたそうだ。僕はというと「真実を知らんとは言え、なんとカワイソウな人々やのう」とクールに構えてしまって、感情の高揚もないまま画面を眺めていた。横にいた嫁は「へー。すごいなあ」なんて感動していたというのに。

 

     つまり考えてみれば、僕はゼンゼン番組を楽しめていなかったということなのだ。

 

     またあるとき、店のお客さんが「呪いのビデオ」なるものをレンタルで借りてきて「一緒に見よう。メチャメチャ怖くてチビるで」なんていう。映像の片隅に幽霊みたいな怖い顔がぼんやりと映し出されていたけれど、僕的には「どうせ作り物やろ。幽霊なんかおるわけないわ」と完全否定でしらけて眺めていた。でも他のお客さんたちは「ぎゃ~!うそー。怖いがな怖いがな」とビビリまくっている。
  アホやなあこいつら。と思ってみたけれど、みんな怖がってるのが何だか楽しそうでもあるのだ。そうだ。

 

  つまり超自然的なものをあたまから否定する僕はロマンを楽しめない悲しい人間になってしまっていたのだ!

 

  思えば死後の世界だって信じなければ、「死んだら全部終わり」てな感じ。悲しくて夢がない。でも死後の世界があることを信じれれば「死んでも明るい未来が待ってるで。そしてそこにはみんながいる!」っと、なんだか死ぬのも怖くないような気がする。
  そんなわけで超自然的なものや科学で説明のつかないものを少しは信じれるように努力してみたいと思う今日この頃の僕である。
  一度ホンマもんの幽霊でも見たら信じれるようになるかなあ。幽霊さん。いっぺん遊びに来てくださいね。って、こんな態度じゃ絶対来てくれへんやろなあ。


日記55. 喜びと悲しみの起伏をコントロールできれば人間はもっと幸せになれる。

  子供の頃って感情の起伏が激しいのは僕だけに限ったことじゃあない。誰だってきっとそうだっただろう。
  昔は「たっくん男前やねえ」と言われただけでものすごく有頂天になって世界中がバラ色に見えたもんだ。子供の頃は、逆に悲しい時も止め処がない。根性の悪い友達に少し嫌がらせをされただけで、人類存続に対する絶望感と怨霊のような恨みに翻弄されながら暗闇の淵に深く沈んでしまう。
  ところが大人になるとそうした感情の起伏の具合が少し違ってくる。うれしい時も悲しい時もまあまあ。子供の時のようなぶっ飛んだ自分がいない。なんだか自分を客観的に眺めている第三者的な自分がいるみたい。だから、有頂天になることはあまりなくて、「ああ。状況が好転している。次に打つ手と連動できるかな?」と、あくまで理論的で機械的な自分を発見してしまう。
  「男前やねえ」なんて言われようものなら「コイツいったい何をタクらんどんねん」と逆に懐疑心に凝り固まってぜんぜんハッピーなことはない。
  一方で財布を落とすという人生最大級のショックに見舞われても「健康な体があればまた金は稼げる。むしろ落ち込んで憂鬱になること自体が人生を無駄にしてるなあ」と、まあそれなりに受け流せる。

 

  つまり大人になると喜びも悲しみも子供の頃の半分ぐらいじゃないかと思うのだ。

 

  ちなみに僕が尊敬する仏陀の教えによると「心を常に平穏に保つことこそ人間が幸せに生きる秘訣だ」みたいなことをおっしゃっている。そんなわけで人間は年とともに悟りの境地に近づき子供は感情の少ない老人へと変化していくのもこれはこれ。世の生業であるということか。
  しかし考えてみれば、悲しみが半分になるのは良いとしよう。でも喜びも半分だとそれって幸せだとはいえないのじゃないのかなあ。
  仏教の教えの真髄が心のコントロールであるなら、悲しい時は半分で、うれしい時は倍に喜べるようにできるはずだろう。
  僕なりに考えてます。感情の起伏を都合よくコントロールしようと。

 

  悲しみはおっさんらしく受け流し、喜びは子供のようにバラ色にはしゃごう!