日記56. 自分の人格と言うものは出会った他人の人格の集合体ではないのか。

  村上春樹の本を読んでいたら少し興味深いことが書いてあった。
  彼は執筆中つまり書きかけの文章は完成するまで決して人に見せないらしい。いや。彼というのは村上春樹の小説に登場する「僕」という人物のことである。まあ村上氏の分身と考えていいかと思う。その彼は書きかけの文章についての他人からの途中意見を聞くことはない。彼いわく、書きかけの文章を人に見せて何がしかの意見を言われた際、どうしてもそれに影響を受けて残りの文を作り上げてしまうと。それは「本当の自分を見失ってしまうことで、もう自分の文章ではない」というような内容のことが書かれてあった。
  うーん。世界から認められた作家が言うんだから、それは確かにそうなんだろうけど、僕自身とは対極にあるなあと思った。
  僕は雑誌の原稿の書きかけをよく人に読んでもらい、意見を言ってもらう。意見を聞いて口先では「なるほどエエ意見を言ってくれてありがとう」と言いながらまったく影響を受けないこともあるし、良いと思った他人の意見の影響で後半の流れががらりと変わってしまうこともある。
  村上先生から言うとそれはもう「自分の文」ではないのだろうけど、僕はそんな風には思わない。
  では、性格とか人格とかいう意味の「自分」って何なのか? それは

 

  今まで出会って影響を受けた人間の人格のカケラの集合体が今の自分なのじゃないのか!

 

  例えば、生まれてすぐに狼にさらわれて育てられたならその彼の性格は狼と変わらないだろうし、略奪強盗団に育てられたら強盗することに良心の呵責を感じることはないだろう。つまり人間は他人の影響なくして自分の人格を作り上げることは不可能で、もっと言うなら「本当の自分」なんて無いのじゃないのか。無数に触れ合う他人の人格の一部、それの集合体が「自分だと思っている自分」だと思うのだ。
  そんなわけで村上春樹さんが「他人の影響を受けないように自分ひとりで文章を書く」と言っている時点でそれはすでに多くの人からの影響を受けた結果なのだ。
  僕に関して言うと、執筆途中の文章を人に見せて「良いと思った意見は取り入れるけど、良くないと思うことには影響は受けない」と。逆説的だがそれこそが本当の自分なのではないのか。
  さらにユングの言う集合的無意識なんて考えると、「いったいどこからどこまでが自分なんだろう」て思う。人が集まって空気を読んだ結果本当の自分の意見と逆なことを言ったり、LSDを服用したら自分と他人との境界が判別できなかったり。そんなのが行き過ぎれば自分がイエス・キリストになったりしてしまうのかなあ。妄想に入るギリギリでイロイロ考えました。


日記57. 僕の幻の姉、雛子ちゃんについて。

  母親の話によると僕には姉がいたらしい。それを姉と言ってよいのかどうか、とにかく僕が生まれる二年程前に母は6ヶ月の女の子を流産したという。
  「雛子(ひなこ)」と名づけられた彼女の位牌が家の仏壇にもお墓の中にも存在しているものだから、幻となった彼女と僕との関係を想像して感慨にふけることがある。
  生きて産まれることができた僕の兄弟は、兄と弟の二人。つまり僕は男三人兄弟のまん中で、ガサツで殺伐とした中で育った。どこでも男兄弟なんてそんなものだろうけど、子供の頃は、兄弟喧嘩、服の取り合い、冷蔵庫の食べ物の奪い合いの毎日。その頃の兄貴は僕にとって自由を束縛し利益を貪る強大な壁のように感じられた。

 

  「コワイ兄貴にイジめられてもその後に優しいネーチャンが慰めてくれたなら、どんなに素晴らしい人生だろか。ああ。もし雛子ちゃんが無事に生まれていてくれたらなあ」

 

  小さい時にそんなことを思い、友人たちの優しいおねえさんを眺めるとますます思いは募った。きっと雛子ちゃんは美人で優しくて大阪風のサバけたオモロイ女であるに違いない。そして僕は雛子ちゃんのことを親しみを込めて「おねーちゃん」と呼ぶのだ。考えてみれば生まれてこの方「おねーちゃん」という語彙をそんな純な気持ちで発したことは無い。だいたいからして僕が「おねーちゃん」と言う時は、鼻の下を伸ばしたスケベ心の塊だった時に限るからだ。
  ある時のこと。僕は母親にこう言った。
  「雛子ちゃんが無事に生まれてくれてたら、僕にもおねーちゃんがいたわけやなあ?」
  すると母親はきっぱり。

 

  「もし雛子ちゃんが生まれとったら、家族計画からするとあんたはこの世に生まれてへんわ」

 

  ☆※$#!! なぬ~!

 

  それはショッキングで不思議な事実だった。
  まあ考えてみれば、もし雛子ちゃんが生まれたあと、家族計画で僕の生まれた年にもう一人子供を出産することにしても、その行為によって僕自身がこの世に存在した確率はほとんどゼロだろう。そもそも生殖において父親の何億匹も発射された精子で一番最初に母親の卵子にたどり着いたのが「僕」である。だから父と母のセックスにおいて腰の振り方一つ違っていてもゴール前に別の精子に抜かれたらその受精は「僕」を存在させないのだ。別の精子が受精したら僕に似た人間が生まれるに違いないが、それは絶対「僕」ではない。

 

  つまり雛子ちゃんと僕が同時に存在することは絶対にありえないことだったのだ。それはこの宇宙の摂理をいかにイジろうともだ!

 

  なんということか。現実にこの世に存在する僕と、存在のカケラをこの世に披露した雛子ちゃん。どちらも夢や空想ではないのに一緒に存在することは不可能だったなんて!
  目を閉じれば50歳の雛子ちゃんが「あんたどないやの。しっかりいけてるんかいな?」なんて言う姿さえボンヤリ脳裏に浮かぶ。だけど彼女は現実と幻のハザマで、文字どおり永遠に「雛」のまま僕の前に成熟した人間として登場することはありえなかったのだ。
  なんだか、それが不思議でたまらない。


日記58. 世の中の原因と結果のあいだの逆向きな歪みの論理について考えた。

  僕が子供の頃まわりのハナタレガキども(僕もそうだった)がよく言ってた。

 

  「バスケットボールをすれば背が高くなる」と。

 

  なんでバスケをすれば背が高くなるかというと「バスケ選手は背が高いから」そして「シュートする時に空に向かって身体を伸ばそうとするから」というのが理由らしい。鵜呑みにしてバスケ部に入部したけど全然背が伸びることなどなくて朝礼で前列を定位置し続けたチビを少なからず知っている。
  少し大人になって分ったこと、それは「バスケをするから背が高くなる」のではなくて「背が高い奴がバスケをする」という事だ。
  世の中には、同じように原因と結果を含めた因果が捻じ曲がって解釈される例は良くある。
  例えば、

 

  「アルツハイマーになった人が病の直前まで続けていた趣味で圧倒的に多いのはサイクリング」という事実。

 

  文面だけを追うと「サイクリングするとアルツハイマーになりやすい」とも解釈できる。でも実際は違うと思う。

 

  本質は「アルツハイマーの兆候を自ら感じた人々は少しでも精神の正常を保つために痛みかけた脳を癒してくれるサイクリングを無意識のうちに選んでいる」と思うのだけどどうだろう。つまり「アルツハイマーになりかけだからサイクリングをする」のだ。

 

  同じようなことは「北枕は縁起が悪い」についても言える。
  ご存知のように「北枕」は仏さんが亡くなった時に寝ていた頭の方角を言う。それも最近出されたある説によると

 

  地球の自転軸に向かって頭を向けて寝ることは引力や電磁波などの影響を考えると「とても健康に良い」らしいのだ。

 

  つまり「北枕が悪い」のではなく「身体の具合が悪いから北枕にした」ということなのだ。
  まだまだ例はある。
  「顔面フィードバック理論」というのがあって、顔の筋肉の動きが人間の意識や免疫機能までコントロールするという。つまり「嬉しいから笑う」のではなく「笑うから嬉しくなる」とも言えるらしい。
  この世にはそんなことにあふれているのじゃないか。だとすれば物事の解釈はとてつもない広がりを見せる。
  「酒を飲むから酔う」とは別の解釈によると「自らの精神を異常な状態へ逸脱したい時に酒を飲む。つまり酒を飲もうと思った瞬間からすでに酔いははじまっている」すなわち「酔うから酒を飲む」とも言えるのだ。「酔い」が原因で、「飲むこと」は結果なのだ。
  他にも例えば、高い月謝を払ってスポーツや音楽の習い事をするとする。統計では月謝の高さに比例してその趣味の技術やパフォーマンスが向上する。これだって解釈の仕方によれば「高い月謝を払ったから上手くなる」のではなくて「高い月謝を払う決意ができるぐらいのモチベーションを持っている人だから、月謝の分だけは意地でも努力する」と考えられるから「上手くなる人だからこそ高い月謝を払える」とも言える。これだって「上手くなる人」が原因で「高い月謝」は結果であるとも言える。

 

  そんなことを考えていると変な気分になってきた。

 

  因果の逆の流れもまた本質なり。それは運命論的な命題を内包していることでもある。

 

  「父と母がセックスしたから自分が生まれた」ことだって「僕が生まれることは運命的にすでに決定されていたことであるなら、父と母がセックスしたことは僕が生まれることの結果としてすでに決定されていた」なんて考えるのは頭がおかしいのかなあ。


日記59. 明晰夢を見て考えた。

  このあいだ明晰夢を見た。
  明晰夢というのは夢の中で「ああ。これは夢である」と自覚して見る夢のことを言うらしい。不思議なことであるけれど、普通、夢を見ているときにそれを自覚することはほとんどない。夢の中では奇怪珍妙支離滅裂な出来事や現象がとめどなく頻発するというのに、通常それを夢だとは気づかない。でも僕たちは、現実世界の中でとんでもないことが起こると「これは夢ではないだろうな」なんてホッペタをつねるのだ。
  とにかく明晰夢というのはそう簡単に見ることが出来ないものなのだ。
  さてこの明晰夢が面白いのは、夢だと気づいた瞬間からその世界を自由自在にコントロールすることが可能なところだ。そらそうだ。夢って自分の頭の中で作った世界なんだから自分が思うだけでいくらでも好きな状況をつくりだすことができる。上手くコントロール出来るとそれは一大快楽エンターテイメントとして楽しむことができるという。

 

  それはやりたい放題である。

 

  絶世の美女と好きなプレーでエッチもできるだろし、念力で巨大な象を持ち上げることもできる。空を飛ぶことだって、水の上を歩くことだってできる。気に入らないものは精神爆弾でコッパみじんだし、殺人さえも罪にならない。

 

  先日、そんな明晰夢を見た。
  僕は塔を登っている。高さはそう50mぐらいあったろうか。でもなんだか変なのだ。塔は紙の張りぼてみたいで柔らかくて実体に乏しい。僕は「これは夢に違いない」と自覚した。自覚したその瞬間現実世界に引き戻されるような力が働いて目が覚めそうになった。意識しないと夢が終わってしまうような感覚だ。僕は必死で留まろうと気持ちをコントロールした。そして精神が安定して夢の中で完全な自覚を持った時(完全な明晰夢状態になった時)「さあ夢ならここから飛ぶこともできるだろう」と塔から空中に身を投げた。僕の体はグライダーのように空中を浮遊した。気合を入れると高度が上がり、気を抜くと高度が下がった。鳥のように完全な飛行をコントロールできてたまらん快感に痺れた。

 

  空を飛べた! 夢を自覚できた! その世界を自分のものとして操れた!

 

  確かに面白かった。でも考えてみると楽しそうな明晰夢にもいろんな落とし穴があるかもしれんとも思った。
  僕のある友人は夢を見るたび何度でも明晰夢にできるし、その世界のすべてを操ることも可能だという。その友人いわく「寝ている時って気を抜いてリラックスしているのが普通なのに夢の中でもアクティブに気を持ちつづけたら精神が疲れる。寝た気がしない。だからあまり明晰夢のことなど考えないようにしている」とのこと。
  なるほど。そうすると、もしいつでも完璧な明晰夢を見れて完全にコントロールして好き放題して酔いしれたらどうなるのだろう。
  ひょっとして、明晰夢による快楽のエンターテイメントの中毒は、精神を病んでしまうことになるかもしれん。頭が少しおかしくなって夢と現実の区別がつかなくなってきたら要注意だ。空を飛べると思って塔から身を投げたらエライこっちゃ。もし現実なら死んでしまう。
  気に入らん奴を殺してみたろかい。と包丁でグサっと刺したらどうだろ。もし現実なら・・・。うー。
  まあそこまで夢の世界を頻繁に完璧に操れたら逆にコワイもんやなあと。
  僕的にはもう一度世界を自由に操る快感を味わいたいと寝る前に「明晰夢!」と気合を入れるのだけど、なかなか見れない。やっぱり頭脳明晰な人でないと簡単ではないのかなあ。でもそれは考えようによっては危険をはらんだことでもあるし、凡人の僕らはこの程度で安心なのだなあと。


日記60. 南京虫に食われて考えた。

  先日、出張先でカプセルホテルに宿泊した際、なんと今のこの時代に南京虫に喰われるという不幸に見舞われた。

 

  南京虫に喰われるとどうなるかと言うと、これがけっこうキツい。

 

  腕と脚に赤い斑点が数十箇所! ツール・ド・フランスの山岳賞ジャージのようにも見えないことはないけど、普通に眺めているとメチャメチャ悲惨で情けない。それよりなにより痒さが尋常じゃない。喰われた当日は大したことないけど、日を追って痒さが増していき、三日目ぐらいになると夜中にのた打ち回るほど激烈に痒くなる。我慢してるとケイレンを起こしそうなほどの苦しみなので、無意識に激しくボリボリしてしまい、けっきょく皮が剥けて血が滲む。放っておくとそんな地獄のような状態が2週間も続くと言う恐ろしい吸血生物の洗礼なのだ。

 

  まあ。それにしても喰われた箇所が腕と脚だけでホント不幸中の幸いかとも。もしチンコや肛門なんぞを喰われたりしたら・・・考えただけでもぞっとする。

 

  近くの皮膚科に行って抗生物質とステロイド系軟膏を処方してもらったら劇的に痒みはマシになって、あーヤレヤレてな感じに落ち着いた。皮膚科の先生によると「清潔国家の日本では南京虫なんて絶滅に近い状態だったけど、最近では中国人が運んできよるから安宿は気をつけなアカンで」とのこと。おのれ中国人めぇ~。

 

  でも考えてみれば南京虫とかノミとかダニとか蚊って、どうして血を吸ったあとに痒み成分を残してゆくんだろう。

 

  あいつら小さな生物なんだから血が欲しいんだったら少しぐらいやってもエエと思うんだけど、あの痒いのが大変よくない。友人によると「吸血針を刺すときに皮膚を柔らかくする物質を注射するのだけど、それが人間にとって痒みを感じるんだよ」と言う。まあ、それはわかるけど、僕が思うのはそういうことじゃなくって、

 

  地球生物はすべての上でギブ&テイクで生きているということだ。

 

  例えば花は甘い蜜を出して昆虫はそれを美味しくいただく代わりに花粉を運ぶと言うギブ&テイクがある。もっと言えば動物と植物だって二酸化炭素と酸素を交換し合いながらお互い助け合っているのだ。バーだって、店はお客さんに美味しいお酒を出して楽しんでもらい、お客はそれ相応の対価を払うと言うギブ&テイクだ。しかし南京虫は違う!

 

  南京虫ってまるで、飲食店で食い逃げする時に店の人らをボコボコにシバいて去っていくみたいな、情けのカケラもないイスラム国みたいな存在なのだ!

 

  そう考えるとますます許せないけど、ちょっと不思議にも思う。南京虫はどうしてわざと嫌われるような痒みを残していくのだろう。生物として進化繁栄したいのならそんな手法は取らず、「痒み成分」の代わりに「気持ちよくなる成分」でも残していったら、僕たちはもっと彼らに対して歓迎態度であるはずだ。皮膚を柔らかくしながら人間に良い影響をもたらす物質を持つこともこの長い進化の歴史の中で可能であったはずではないのか。痒いイタズラをするから彼らは害虫で駆除駆逐される。それは彼らにとって損ではないのか?
  まあ、やつらに喰われまくっていろんなこと考えました。
  あー。そうか! そんな疑問を投げかけて、考えさせること自体が南京虫の本当の目的で、彼らは地球全体のレベルアップを視野に入れているのではないのか?! そう思うと凄い生物やなあ。つまり、チンコと肛門への攻撃を控えるのも、そのあたり思慮深いところなんだなあ。と。