僕にとってポタリングは20歳のかわいこちゃんなのだ
<「人生2回結婚説」から考える自転車人生>

 

坊やとオバチャンの夜はむさぼりあいである
 僕と同じ年の友人で元自転車選手のバツイチ男がいる。
 僕と同じ年だから43歳のはずである。大して男前でもないのだけど、そいつが最近ハタチぐらいの若い娘と結婚したと聞いてぶったまげた。なんと言ったらいいのか、それはユユシキことである。生殖可能な観点からして自分の娘と結婚するみたいなものである。すなわちそれは淫行でありタブーであり、許されざるべき行為ではないのか。ああもう。メチャメチャうらやましいがな。
 なんと幸せな男だと思うのだけど、年の離れた娘と結婚することは理論的にもどうやら間違いではないという話を最近聞いた。「人生2回結婚説」というやつである。
 ちょっと昔、木々高太郎という作家であり大脳生理学者でもある方が提唱した説である。それは男も女も20歳ぐらいでそれぞれ40歳ぐらいの相手と結婚し、自分が40歳ぐらいになったら今度は20歳ぐらいの相手と再婚するのがよいのではないだろうかという説だ。
 離婚されたオジイチャンとオバアチャンはどうするのかという疑問や、子供はいつ誰がつくるねんという謎はあるのだけれど、僕はこの説のある種の合理性に深くうなづいた。それは男と女の性欲曲線の違いを上手くとらえているからである。
男の性欲は20歳ぐらいがピークで30歳を過ぎると急降下していくという。もちろんこれは一般論であり、50歳にもなってあそこがギンギンのハゲ親父を僕は知っているけれど、それは特殊例である。一方で女の性欲は20歳ぐらいではまだまだ低くて、40歳ぐらいになってピークをむかえるという。
 つまりメチャメチャやりたい盛りの坊やとメチャメチャやりたい盛りのオバチャンがハメ狂えば最高でんがなというわけである。一方でまだまだ性の高鳴りをむかえていない少女と少し疲れたオッサンは優しげに静かに交わることができるところも、またナイスである。

 

では「自転車人生2回説!」はどうだ
 「人生2回結婚説」の素晴らしいところはセックスに関してだけではない。人間的な成長という観点からしても人生の先輩が後輩を上手くリードすることによりトラブルは減り、人生学習を効率よく運ぶに違いない。当然ながら年齢が違えば価値観も違うので、思考的にも広い範囲からの刺激を受けることが可能になり、年上の方にとっても枠に縛られない個性の確立にも役立つのじゃないだろうか! 素晴らしい! 今すぐ20歳の娘とやりたい!
 いやいや。ついつい興奮説得調になってしまったけど、別に嫁と別れたいからというわけじゃなく、僕が思うのは、「人生2回結婚説」を自転車遊びの楽しさと発展の為のアイデアに結び付けることができないかなあということである。
 例えばこんなのはどうでしょう。
 「自転車人生2回説!」
 僕はその昔レースで勝つために目を三角にして走っている時期があった。自転車で走ることイコール、スピードを出すことだった。通勤や通学でも最短距離で目的地に少しでも早く着くため無数の黄金ラインをパンツに刻んだものだった。でも、最近はまっているのが、僕の自転車第二人生ともいえるポタリングというやつである。
 歩くより少し速いぐらいのスピードでタラタラと遠回りを繰り返しながら街の風情を観察するのである。そうすると今まで見えなかったことがいっぱい見えてきたのだ。それは風景だけのことではない。タクリーノのサイクリングクラブの面々とともにポタリングするうち、レーサーと違う視点からの人間的価値観を知りえたことは大きな喜びだと思っている。
 もちろん今でもレースは大好きだし、今年はBR-3から実業団に再挑戦しようと思ってるぐらいだけど、それでも少し疲れた僕にとってポタリングは優しげで静かな交わりを与えてくれる20歳のかわいこちゃんに違いないのだ。
 受ける刺激の種類をイロイロ変えてみることは良いに違いない。僕的には、やりたさを奥ゆかしさで覆い隠すオバチャンが好きだなあ。って、なんのこっちゃ。


追記>このコラム、何だか突拍子もない落ちのようだけど、つまりは人間って飽きっぽいから視点を変えていろんなことをつまんじゃおうということなんですわ。例えば絵が得意な人は時に文章を書けば脳の使われていない部分を刺激することになるし、文が得意な人は絵を書けば違った視点で物事を咀嚼する能力が開発されるとかいうことと共通点があるかも。
ちなみに、男女の年齢性欲曲線のグラフ線の盛り上がりは、一回のセックスの快楽度合いとよく似ている。男は急に興奮して射精したら覚めるけど、女はじりじりと燃え上がって終わった後もずっと気持ちええらしい。