「自己家畜化現象」から考える自転車レース。

 

「人間の自己家畜化現象」とは?
面白い話を聞いた。なんでも現代人の生活パターンや身体形質は家畜動物にとても似ていると言うのだ。人間は古来から野生動物を飼育し家畜化したが、どうやら自らも家畜にしようとしているらしい。これを「人間の自己家畜化現象」という。
確かに僕たちは、整えられた環境の中で安全に清潔に生活し、オリコウにしていれば決まった時間にペディグリーとかピュリナにありつける。こりゃまるでマンションの一室で飼われているワンコやニャンコと同じだわな。
家畜の身体形質は、野生種に比べて「大型化、長寿化、肥満、性的早熟、性的異常、脳の縮小」などの兆候が見られるというけど、これって現代人の特徴そのものやん! 「脳の縮小」ってエグいけど、実際クロマニョン人の方が脳ミソは大きかったらしいし。
オオカミが犬に変化したように、イノシシが豚に変化したように、思えば思うほど僕たちの回りから野性味が欠落しているのは紛れもない事実なのだ。でも、それは悪いことではないかもしれない。自己家畜化は便利で安全で安心を与えてくれるのだ。人類を存続させるために必要な作戦かもしれない。だからこそギャランドゥの胸毛の野性味は、希少価値として魅力的に感じられるのだ。

 

禁断の小説「家畜人ヤプー」とは?
話は脱線するけど、「家畜人ヤプー」という奇憚な小説がある。沼正三氏という謎の人物によって書かれたSF・SMの奇書は三島由紀夫によって世に掘り出された。
あらすじ。恋人同士である日本人の麟一郎とドイツ人のクララはUFOの墜落事故をキッカケに常軌を逸した未来世界に連れて行かれる。果たして、そこは白人女性が神として崇められ君臨する国で、最下層階級の日本人男性は家畜として肉体改造され肉便器や生体家具、果ては食用や性玩具にされるトンでもない世界だった。白人女性のクララはこの国で貴族として丁重に迎えられ楽しい生活を満喫する、一方で日本人男性の麟一郎は捕らえられ去勢され心身を改造され、凄まじい葛藤の末、自らをクララの奴隷として認め、生まれ変わっていくという、まあ超絶なサドとマゾが自我を粉々に破壊していくお話なのだ。
噂によると作者の沼正三氏は、終戦直後のアメリカ進駐軍支配化で白人女性将校に虐待を受けながら快楽を感じている自分を発見したことがそのモチベーションになったとか。そんなわけで彼は麟一郎を自らの化身として小説内に送り込み、みごとな「自己家畜化」を実現したのだ。渋沢龍彦や寺山修司にも賞賛された、この小説の存在からして人類の自己家畜化の浸透度の深さを感じずにいられない。ちなみに未成年は読んではいけません。

 

自己家畜化する自転車レースとは?
さて。やっと自転車の話。
「人間の自己家畜化」というのは「完璧なシステム化」と言い換えれる。そう考えると、自転車の世界はかなり家畜化している。寒い日や雨の日はローラー台でトレーニングするなんて家畜化の骨頂だし、大きな意味で言えばサイクルコンピューターやパワーメーターや電動変速機も家畜化の一種だろう。機材だけじゃない。ロードレースの無線による情報の伝達は選手の思考を止める家畜化といえるし、そもそもレース形式がシステム化されてラストの数十キロまで毎度同じようなパターンのレース展開で、見ているのが退屈なのも家畜化が原因だ。それでも自己家畜化は理論上悪い物ではない。見ているのが退屈なのは「見ている方の理屈」であって、走る方には「勝つための理屈」があるのだから。
ところで家畜動物は、人間の必要に応じてその形質と機能を変化させてきた。たとえば、馬は速く走るために長い脚に変化したし、乳牛は野生種よりお乳を大きく変化した。そう考えると、人類が自転車競技力向上の必要に迫られて自己家畜化を進めていけば、未来には「体脂肪が少ない」「脚が長くて大きいトルクが出せる」「肩幅が狭く空気抵抗が少ない」そして「ミトコンドリアが多い」なんて肉体に変化して、選手はサラブレッドのような「走るためだけの身体」に成るかもしれない。凄いけど、なんだか家畜人ヤプーの生体家具みたいだとも思う。
よく考えてみると、自己家畜化やシステム化は安全で安心で便利な人類の繁栄を約束してくれるけど、同時にギャランドゥの野性味やドラマチックなレース展開や強烈な個性を失うことを意味する。で、ふと思った。いったい自己家畜化は人類にとって本当に幸せなことなのか? なんて。結論も出せずに思い悩むのは、やっぱり脳の縮小が原因かなあ。