運気と確率と錯覚の話

 

だから宝くじは運気が盛り上がった時に買おう?!
今年のツールはフルームが危なげなく優勝しちゃったけれど、コンタドールが運気に乗れていたら2人の白熱戦でもっとレースは盛り上がったはずだと考える。初日そして二日目と連続落車したコンタには「お祓いでも行ってこいや」と慰めてあげたいが、実際、世の中の経験上で「幸運も不運も連続して発生する」というジンクスが確かにある。
マージャンされる方なら思い当たる節はあるだろう。勝ちつづけて調子に乗っている奴のツキは留まるところを知らず、逆にいったんツキから見放されてしまえば奈落の底へのブレーキは効かない。数学的に算出される確率論というのがいかに非現実的な机上論であるかということを思い知らされる。事実、ラスベガスで活躍するギャンブラーたちの基本セオリーで「運気が下り坂のディーラーを攻めろ」というのがある。
思い起こせば、僕にも強烈な不運が連なった経験がある。中学生の頃、サイクリングに出かけようとしたら、まず飼い猫がシューズの中にウンコをしており、それでも出発したら飛び出してきたママチャリおばちゃんを避けて転倒し(鎖骨が折れてた)、さすがに引き帰したら突然リアディレイラーが爆発して壊れ、泣きながら自転車を押して帰宅したら財布を落としていたと。もうメチャクチャですわ。

 

パチンコで連勝している。なんて錯覚?!
そんなわけで、運の流れというのはなにやらバイオリズムを踏まえた一定の法則があるように思える。自転車レースのことを考えると、落車やパンクやゴール前の位置取りさえも運気の影響を受けるとするなら、「運気の法則」を科学的に捉える事によりトラブルの発生を抑えることができるはずだ。
でも調べてみると、「幸運を呼び込む方法」にはイロイロあって「赤富士の写真を財布に入れる」とか「ピンクのバッタを北海道に探しに行く」とか「四葉のクローバーをスマホの待ち受け画面にする」とか、そんな手法は科学を追求する立場から程遠い。ある意味オカルト的でインチキ臭いような気もする。そんなところに霊感商法でツボを買わせる奴らの暗躍があるのだろう。
で、もっと科学的に考えてみた。ある説によると「幸運(や不運)が連続して発生する」というのは「錯覚」だという。「ポアソン・クランピング」と呼ばれるその考えでは、人間はランダムな事象の並びの中に無理やりに規則性を見いだそうとする性質があるため、悪いことが数回連続して起ったら「ツキが下降している」なんて錯覚を抱いてしまうのだ。
例えば、100円玉を放り投げて「裏か表か」と試すとする。裏と表の確率はそれぞれ50%だけど、実際には裏と表が交互に現れるわけでもない。「50%」というのは10万回以上試行した上での近似値で、裏が20回続いた後に表が100回出ることもありうるのだ。でも、仲間とコイン賭博をして、表が連続して100回出たら「何か不思議な力が働いている」なんて錯覚するだろう。それが「運気連続の不思議」つまりポアソン・クランピングの正体なのだ。だから、レースでパンクして落車して30万円のホイールがブチ壊れて帰り道でヤクザにカツアゲされたあと家に戻ったら空き巣に入られていて彼女から別れのメールがあったとしても、それは「不運の連続」だと言い切れないのだ。

 

錯覚に惑わされず真理を探れ!
人間がランダムな配列にパターンを見出す事例は他にもある。例えば、壁のシミに三つの点を見たら、それを人の顔だと認識してしまう脳内システムがある。それを「パレイドリア」と言う。これは「ポアソン・クランピング」と同じく、人間が下等動物だった頃からの生きるための必要能力で、敵か味方かを瞬時に判断し、生き抜くための重要な仕組みなのだ。でも人間の小さな脳は複雑な情報を細かく処理できないため、見たものを簡素化して大まかな判断をするから誤認識もおこる。そんなわけで幽霊や心霊写真はパレイドリアだろうし、星座も月のウサギも夫婦岩もすべてはその結果生じた錯覚の産物なのだ。
要するに、運気の流れもパワーストーンやご祈祷の御利益だってランダムな事象を無理やりにパターン化した錯覚ではないのか。そう考えると、逆に不運が連続しても落ち込まないで心の中庸を保っていられるし、オバケ屋敷も怖くない。前向きに頑張っていれば100円玉はいつか絶対にオモテ目が現れる。ちなみにオシャカ様は2500年前にこう言われた。「超自然的な力って存在しないと思う。だってお祈りしても不幸な人っているじゃん。だから人が幸せになるためには真実を見据えて自分の心をコントロールすることが大事だよ」って。これホント。だからコンタは御祓いに行く必要なし!